ラッコが気づかせてくれた愛の気持ち
通勤の時に通る道に、小さなお米屋さんがあります。
ご夫婦で経営しているお店です。
仕事帰りにお米を買わせていただいたり
朝、美味しいおにぎりや稲荷ずしを買ったりしているうちに
旦那さんとも奥さんとも
少しおしゃべりをするようになりました。
4か月くらい前のこと
お店の前に置いてあるディスプレイの棚に
『わすれものです』
というMEMOを貼ったビニール袋が吊るしてありました。
ビニール袋の中には
身長30センチくらいの、ラッコのぬいぐるみが入っていました。
優しい色合いで、フワフワしていて、おめめもクルッとしていて可愛い。
「早く落とし主に引き取られるといいですねぇ」
「そうなんですよ。きっと探しているでしょうからね」
という会話が、お客さんの間でも交わされるようになりました。
ところが、1か月経っても
2か月経っても、3か月経っても
落とし主は現れず
ラッコは、吊るされたまま。
そのうちに、わたしの心の中には
「もしこのまま落とし主が現れず、お米屋さんが捨てることになるなら
わたしが引き取ろうかな…」
という感情が生まれ始めました。
とても可愛いラッコだし
きっと、うちの子たち(既にある、ぬいぐるみ)も
仲間に入れてくれると思う。
もしこのまま落とし主が現れなかったら。
ところが、今週になって
お米屋さんの前を通ると、ラッコの姿が消えていました。
わたし「ラッコのご主人、見つかったんですか?」
お米屋さん「はい!落とし主が迎えに来ましたよ!」
わたし「よかった~」
お米屋さん「ホッとしましたよ!」
わたし「ほんとうは、もし落とし主が現れなかったら、引き取ろうかなと思っていたんですよ」
お米屋さん「そう言ってくださるかたが数名いらしたんですよ!うちでも、可愛いからこのままうちの子にしちゃおうかな?って相談していたんです」
わたし「そうなりますよね~」
お米屋さん「なんかね、そんなふうな気持ちになりますよね!」
どうやら、水族館で買ったラッコのぬいぐるみで
落とし主は2つ持っていたらしい。
2つ並べて飾っていたわけではないので
無くなったことに気づくのが遅れたとか。
どちらにしても、ラッコちゃんもおうちに帰れて幸せだと思う。
よかったよかった。
ホッコリしながらお米屋さんを後にしました。
それにしても
人はどうして
顔のついたものに、愛着を持つのでしょう?
物にも感情があると思ってしまうのは、何故なんでしょう?
わたしは米屋の帰りに
昔観た映画《キャストアウェイ》を想い出していました。
飛行機が墜落し、無人島に流れ着いた男が
荷物の中にあるバレーボールに、付いていた血痕を利用して顔を描き
「ウィルソン」と名付けて友だちのように話しかけ
相談したり、喧嘩をしたり、笑い合ったりするようになるのですが
ある時
顔を描いたバレーボールのウィルソンは
筏から落ちて海に流されます。
男がなんど名前を呼んでも、どんどん遠くに流されて
海のかなたに消えていってしまうウィルソン。
男は「友だちを失った」と感じて絶望し、筏の上で慟哭するのです。
海に流されていくのはバレーボールであり
その景色は滑稽でありながら、もらい泣きをしてしまいました。
人はどうしようもなく
何かを誰かを愛さずにはいられない。
自分の中にある愛の泉から、どんどん溢れてくるエネルギーを
なにかに注がずには暮らせない。
動物でも、植物でも、ぬいぐるみでも、どんなものでもいいから….
愛のエネルギーを放出できなくなると
心も身体も、調子が悪くなるんじゃないかなぁ、と思います。
そのくらい、愛って∞なのだと思います。
だから出し惜しみせずに、どんどん使ってこ。愛のエネルギー!
ラッコがみんなに気づかせてくれた
「愛の気持ち」でした。