オイリュトミーと世阿弥と…
オイリュトミーの発表会がたましんリスルホールでありました。(今日もあります。気になる方は是非)
音楽と体、動きが一体化するとき、鳥肌がたつ。理由を頭では感知できず、わけがわからないんだけれども、うるっとくる。
群舞は、人が動いているのを見ると同時に空間が共に動いている。魚が水と共に流れているみたい。場の空気が動いている。
頭では理解できない何かが現れる。見ていて頭では理解することは出来ず、ただ現れてくるものに感覚を手放していた。
フランク。曲が始まってそこに立っていたのは、女性の光を纏った存在でした。それを踊ったのは私の友達なんだけれども、違う人がそこにいた。
帰りの道々、あの纏っていたものは世阿弥の「花」というものなのかもと思い出していた。オイリュトミーは、現代において世阿弥の幽玄や花を感じられる可能性を秘めている希少なものかもしれない。
今朝起きて、ふと、私が感じた女性の光っていうのは、何かの「原型」のようなものかと。女性を感じるんだけれども、現実世界で見る女性的なものとは全く違っていて、見たこともないものなのに直感的に女性の光なんだってわかるような何か。純粋な何か。レオナルドダビンチのほつれ髪のを見た時にもそんなものを纏っていたような…
師匠アニシモフはスタニスラフスキーシステムと花伝書の共通点を感じているとよく話す。俳優には「花」舞台には「幽玄」があわられなくてはならない。と。それに向かって毎舞台で実験的に試しているのだけれど、演劇はもしかしたら、型、スタイルがなければそこにいくのは難しいかもしれない。型の中で、型の動きや音楽に捧げ、作品に帰依し、mindを手放し切って型に動かされるくらいにならないと「花」も「幽玄」もきっと現れない。こう表現したい。などと言う私が出てしまうとそれは純粋なものを消してしまう。現代演劇には型がなく、私が前面に出てしまいやすい。でも、私というのはどうにも粗雑なのだ。纏ったものを壊してしまう。逆説的ジレンマだけれど、俳優なんて「俺が俺が」の生き物で、小さな頃から自分を認められてこなかったから、表現できてこなかったからこそ舞台に導かれるみたいなところがある。自分を使って作品のために昇華するには、スタニスラフスキーの著書の題名にもあるけれども「俳優修行」が必要なんだなぁといまさらに感じた帰り道でした。
今も思い出すと、あの胸に一瞬が瞬く。遭遇したのはとてもしあわせなこと。約20年前、師匠アニシモフから「芸術作品を作らなければならない」という言葉を聞いてから、えっ?演劇が芸術?芸術って何だろう?と考えてきた。その答えをもらった日でもあった。日常のいざこざや不安がどうでもよく過ぎさる。一瞬で人を変える力。
今日もあります。たましんリスルホール17時から。