真実
アホみたいに私に付き纏う言葉だ。
小さい頃、私の周りは安心できない場所だった。そのせいかずーっと信じられるものを探してきた。真実という変わらないものが欲しかった。
何故か演技の道に入り、ハリウッドで使われているメソッドなんかをやっていたとき、みんながやたらと「真実の感情」って言葉を口にしていた。
でも、私がみてきたものの中で真実と感じられるものは何もなかった。
演劇をやっていながら、映画も物語も舞台も触れられずにいた。うそっぽさが鼻につくとそれ以上見ても読んでもいられなくなっていた。それは変わらないものじゃない。その人の作ったもの。という感じがしてしまって何も味わえないでいた。だいぶ偏屈で不自由な人である。💧
役者をやめようかと思ったとき、「真実の感情』って、言葉がまた降ってきた。ちきしょー。なら、その真実の感情ってやつをやってからやめてやる。自分に言い訳めいた一言をひらめいて東京に踏みとどまった。
まもなく、今の師匠に出会った。
ワークショップに出て、師匠の演技を見たとき。雷にほんとに打たれた。
ショック。
ほんの一瞬の演技だった。その一瞬でどがーんときた。何が起こってるかわからなかった。桁違いの何かがそこにあった。
師匠と初めて言葉を交わしたとき「何をしたいんだ?」と聞かれた。「真実が知りたい」と口から出てた。「焦るな」とだけ言われた。
それから、ずっと真実でできない自分が嫌で走ってきた。ちょっとでも嘘を自分に感じては本番中に撃沈、失速し続けてきた(笑)
真実が欲しくて、一段飛ばしして十段落ちた(笑)
師匠の言う通り、何かをしよう、どうにかしようということばかりに意識が向いている状態では見つかるものではなかったらしい。
私が見ていた そこじゃないところに真実はあった。
内側の問題。
探し続けて最近思うこと。私の外側にいくら探しても真実はない。
真実は内側にある。そもそも真実を感じられる器がなくては、感じる以前の話で、真実が入ってくる余地さえない。そうなっては何をみても何もかも嘘っぱちだ。泥の中からでも生物の輝きが見つけられるかどうかはその人の感受性。見る目、受け入れる器次第だ。何も信じられなかった。信じられるものがなかったわけではなく、信じられる私がいなかったのだ。
そして、真実はすでに世界に存在しているのではなく、私が存在せしめる部分がある。信じる力が強いほど真実の力は増す。どこかに探すものではなく私が真実を存在させている。師匠に感じたものは信じるその強力な強さだった。その強さによって世界は存在していく。
世界に真実は溢れている。それぞれの人がそれぞれに真実を生きている。
すべてはある意味イリュージョンかもしれない。でも、大事なのはイリュージョンそのものが真実かどうかなのではなく、そのイリュージョンを通して、その人が何を知りたいのか?何故、何を体験しようとしているのか?イリュージョンだったとしても、イリュージョンの体験を通して、その人それぞれの真実を知る。
大事なのは、表面に現れているものではなく、その奥。
みんななにかを求めてる。そこには何か愛おしさを感じてしまう。そこに、ずーっと求めていた変わらないものがあるからなのだろう。そこに私は、違ったレイヤーの真実を感じてしまう。
そーいえば、真に実るとかいて真実じゃないですかー。やっぱり実らせるものなんだろーなー。
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