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能楽堂アンティゴネー公演。役作りのまとめ①


能楽堂に入って、表現方法が全く変わった。


演出家から提案されていたのは、自分に等身大の自然な演技。家族劇にするとのことでした。

が、

能楽堂に入ってすぐ、「はっきりと話せ、もっと大きく、前に飛ばせ!ここは、ギリシャと同じ野外劇場だと思え!」

。。。

ということで、表現方法は家族劇から野外劇に…今までの自然な感情みたいなものは全くの不要。それが出るとエモーション!(翻訳:方向性があなたは違ってます)とダメ出しが飛ぶ。

さらには、稽古場で付け加えられた、イスメネについての性格の特徴やそのシーンの目的なども能楽堂に入った途端に全く変わっていく。。。

俳優は自分可愛さに、そんな急に真逆のことを要求してくるなんて何てことだ!できないT_Tと本番前の急変に悲劇のヒロインになったりするが。。。

変化は創造にとっては当たり前。
創造はその瞬間にしかない。

毎瞬が新しい創造。で、予定調和はあり得ない。

予定調和にしたがるのは、少しでも安心したい俳優の都合だったりする。稽古場には稽古場の創造があり、能楽堂には能楽堂の創造がある。日にちが変わればまた変わる。その瞬間にしか生まれないものがあり、それが本当の創造だと演出家は毎回の生み出そうとしている。

その創造の法則にあまりにも正直に従順な、現実的には無謀とも言えることをやり切るところが、本当に素晴らしい。彼にとっては本当に全てがプロセスであり、実験だ。つえー。かっこえー。と終わった今は言える。笑


とはいえ、本番は必ずやってくる。

とにかく、どうにかしなきゃ。

と、俳優にスイッチが入る。
その逆境に立ち向かうような意識に反転した時に、はじめて、「悲劇」の大きなエネルギーが生み出す可能性が出る。

悲劇はドラマとは違う。
大きなエネルギーが必要。

ドラマを演じる意識だと、どこか、意識に自分サイズの枠がはまっている。その枠だと出てくるエネルギー(感情や思考、意志の力などなど)も日常サイズになりがち。そこからはみ出るとドラマの場合は不自然になる。
なのですが、
悲劇でしかも能楽堂だと、日常が舞台に現れた途端に、どこか滑稽な物になる。日常を能舞台や悲劇は受け付けてくれない。かと言って、大袈裟な演技やエモーショナルな演技になると、不思議なことに能舞台は音が耳障りになり、「ニェットクラシーバー(翻訳:耳障りだ。その声は聞き捨てならん)」というダメ出しがすぐさま飛んでくる。

この大きな日常にないエネルギーをどう生み出すか?が当面の課題となりました。





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