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怒らないことについて、良くないんじゃないかと思う理由3つ

 ゼルダ、ティアキン、3か月で終わってしまいたいと思って、時間を見つけてやっています。というか、他人よりお時間がかかるので、時間がゼルダで埋まってしまって、様々支障が出始めた今日この頃。
 書かない間にホーチミンに行っていたのだけれど、下着を丸ごと忘れて、買いに行ったらユニクロで1枚1000円で愕然とし、洗いながら他で代用する選択をしたのだけれど、思ったよりも乾かず、表に出ることを断念。ゼルダをやりました。わざわざホーチミンに行ってまでゼルダするような人はいないんだろうなあ・・あほやなあ・・と思いながら。
 ゼルダ疲れもあるんでしょうね。メールの確認が荒くて、ご迷惑をおかけした仕事が本日。
 それでも、ただただ皆さまご心配下さっていて、中には「元気で良かった!」って心底、ほっとされていた先生もいらして、温かい人たちに囲まれて、私はどれだけ幸せなのか・・・怒られても当然だった。私は平謝り。でも頭を下げつつ、トーンが違うことに気付いて・・。こういう人たちは大事にしようと心に決めました。さあ!仕事頑張るぞ!!

 そう、怒られないから、だからこそ、気持ちが締まる、そんな瞬間があります。それも絶対真実だし、怒らないことの重要性についての本はたくさんあって、世の中は確実に怒らない方向に傾いているのは確か。
 でもね、それで本当にいいのかしら?と言うのが今日の話題です。

1.世の中の理不尽さを理解する機会がなくなるから
  世の中は理不尽なもの。
  悪いことが跋扈しているから、いい世界にしましょう!!なんてスローガンが出てくる。
  先週の仕事でドバイの研究者が「ドバイは安全な場所です」って公演中に何度も言っていたのだけれど、きっと違うよねえ・・・危ないから安全です!と言うアピールがいるの。
  何が言いたいかと言うと、悪いものはなくならないもの。
  それを受け入れてナンボ。
  それを感じる機会のひとつが理不尽に怒鳴られるという経験。
  ちょろちょろ理不尽さに触れながら生きていける方が、よりいい人生につながるように感じてます。

2.怒る=本気で何かを変えたい!という情熱での怒りを潰してしまう
  憤るのは、何かに対して腹を立てること。その理由は理不尽な理由ばかりではありません。世の中これではいけないと立ち上がるときも人は怒っています。そういう怒りも、今の風潮、潰してしまっているのではないか?と思います。

3.真剣に怒ってくれる人の存在がなくなると温かさを感じる機会も減ってしまう。
  それじゃあだめだ!今、そんなことを言ってくれる人はどんどん絶滅危惧種です。ダメなものはダメ!そう言ってくれる人は、本物の人だったりします。ダメと言われても、最初は何がダメだかわからないから、苦しんで苦しんで答えを見つけていく。わかって進化できた時の感動は、美しい。
  怒るってエネルギーがいる。それを自分に使ってくれる人と言うのはある意味貴重。それって大事ですよね。

  もちろんパワハラ気質、モラハラ気質の人はいるから、全部をひとくくりにはできないけれど、過剰に、パワハラ・モラハラ批判を受ける可能性を恐れなければいけない世の中は、特に偉い人たちにとっては失脚の格好のネタになりますから、そうなりがちですが、次世代が育たない原因の一つになっているような気がしてなりません。

  自分は、ダメなものはダメだといい、出来ない人の配置転換をしたことがあります。後から来た社長さんに多数派工作されて、それはパワハラだったと言って回られて、それが、折角丁寧に育てたプロジェクトをダメにしたきっかけとなりました。その後変わった社長さんが調査をしてパワハラではないというお墨付きが付いたけれど、時すでに遅し。壊れた流れは止まらない。

  あの時どうすればよかったか・・・自分はダメだからダメと言ったこと、出来る人に変えたことについて後悔もないし、パワハラを恐れて仕事をしていたら、あそこまで技術は育たなかったから、どっちにしてもダメだったんだろうと思っています。でも、私のはダメだったけど、ダメじゃないケースもきっとあって、だから、私の例が負のお見本にならないようにしたいなと思います。

  犯罪レベルのパワハラ・モラハラを否定するつもりは毛頭ないのですが、そう訴えられることを過剰に恐れなければならない世の中は残念だと思うんです。
  

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