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人付き合い苦手なのは別に罪じゃない

人付き合いが苦手だ。


当方、はっきりとそう言えるまでに何十年もかかってしまった不器用なアラフォーである。

しかし、今でも割と人付き合いをする方だ。よせばいいのに頑張っては消耗するのを繰り返している。

自分は人と関わらないのだと割り切った人からは「無理して…バカだなぁ…」と呆れられ、人と関わることの好きな人からは「この人なんなの??」と違和感を持たれているだろう、寄る辺のない半端者。


というのも、私はたぶん人が好きなのだ。

まず、今の自分があるのは人との関わりのおかげだと感謝しているし、人同士のほほえましいやり取りを目にすれば「人間っていいな」と暖かな気持ちになる。


 
『人同士の繋がりこそが人生を豊かにする』

気がつけば、どこから発生したのかわからないそんな考えを基に生きてきて、それなのに人とうまく関われないため自己否定してきた。

いやー、どこから発生したんでしょうね、その考え??だれの考えなんでしょうね???

 
親をはじめ私の家族はみんな人付き合い下手くそファミリーなので、元々持っていた価値観ではないはず。成長する過程で世間から吹き込まれたものなのかもしれない。


歳を重ねて、徐々に素直になって、
現時点での私のスタンスはこうだ。
 

人は好きだが、なるべく人と関わりたくない。


矛盾しているとつっこまれそうだが、私の中ではしっかりと筋の通った理論。人を悪者にしたいんじゃなく関わることが私にとって疲労、そしてストレスとなるというだけの話だ。


こんな偏屈者なので子供時代から友達は少なかったが、少ない友達関係を保つため出来るだけ人に合わせ、神経をすり減らしてきた。

友達といる時間が好きだったから…ではなく、一人になりたくなかったからだ。物心ついた頃からそんな感じだった。


人と関わるほどに疲れるしストレスが溜まるので常に人間関係の悩みで消耗していて、いつだって一刻も早く家に帰りたかった。

たいていの人が最強に楽しかっただろう学生時代に私が白熱した記憶といえば、自宅のパソコンの前で過ごした時間。

ホームページを作り、顔を付き合わせなくていい相手とのほどほどの交流を楽しんだり、当時流行っていた『ホームページ素材』をちまちまと作ってサイトにアップしたりしていた、あの地味な時間。
 

外で一生懸命に生身の人々と関わっては、家で自分の時間にひたって気疲れを癒す。その繰り返しが子供時代の私にとっての日々であった。


大学生になり、当時の地元でいちばん栄えた場所だった大型スーパーでアルバイトすることになった。自分の意思で決めたのではなく、友達に付き合って面接を受けたら友達は条件が合わず私だけ受かってしまった成り行きである。

本当は近寄るのも気の進まない賑やかな場所だったが、そんな同年代のうじゃうじゃ働くホットスポットで結局3年ほど修行した。華やかな場所で働きたい性格の陽キャばかりの職場で、なんとか表面だけでも馴染めるよう頑張った。
 

大学では個性豊かなクラスメイト達とできるだけフレンドリーに努めて接し、急いで電車に乗り地元に帰ったらバイト先で人と接する。できるだけ出てくれと頼まれ断りきれなかったので週5日勤務、フルで人に包囲された日々。

そのストレスが積み重なったせいだろうか。ヒステリックになってしまったり、せっかく稼いだバイト代を服の爆買いで使い切ったりしていた。


今思えば「いや向いてないことすんなよ…無理すんなよ…!!」と痛々しい自分に声を掛けたくなるが、私には「苦手は克服しなければ!!!」と、意思と反対の方向に全力で駆け出してしまう謎の性質があった。

(しかしこのバイト時代の先輩が夫と繋げてくれたので無理した甲斐はあったかも…)
 

社会人になったら少しだけ器用になった。
昼休みに応接室で毎日開催される女子会からは度々なにかと理由をつけて抜けながら5年間やり過ごした。自分の机でゆっくり呼吸をして過ごす、そんな時間に本当に救われた。

その後は新卒の会社を結婚を機に退職し、職業訓練校やパート勤務でいくつかの組織に属してきたが、完全にフリーで働くようになった今、はじめて素直に強く願う。私は、どこにも属したくはない。


人付き合いの苦手な自分には、ひそかに盲信してきた幻想がある。それは「自分とぴったり気の合う人がどこかにいるはず」というもの。

完全に引きこもって快適に暮らしている今ならば思う……そんな奴はいないぜ、と。


 
我の強い人間や変わり者の人間ほど、人と食い違う。

点で合う人なら割といるかもしれないが、面でぴったり合う人などいるのだろうか。誰とでも関わるほどに合わない部分は浮き彫りとなる。

そこも含めて受け入れて、忍耐強く交流を続ける営みが人付き合いなのだとしたら…それこそ苦行である。


人付き合いの上手い人は点だけでなんとなく合わせるのが上手なのかもしれないが、それってそもそも人と関わるのが好きだからこそできる芸当だ。


そんな私にも一応 “親友” がいた時期がある。

高校の部活仲間だった彼女は、一緒にいてもリラックスして過ごせるレアな相手。彼女も私といるのが落ち着くようで「おばあちゃんになっても友達でいよう」などと事あるごとに言ってくれていた。いわゆるズッ友というやつか…あぁ口に出して読みたくない日本語である。
 

しかし、私が結婚した頃からなんとなく関係が変わってきた。私はほとんど家庭の話をしなかったが、彼女側からすると変わっていく私に思うところがあったのだと思う。

彼女もキャリアを詰み、遊び方が少し派手になったりとだんだん変化していった。私たちだけじゃない、女って変わる生き物だ。

結果的にちょっとしたきっかけを機に、その“ズッ友”協定は破綻へと向かうこととなった。


学校や職場など同じ環境下で共通の話題で繋がっていた間柄でも、みな時を経て変わっていく。

卒業、結婚、引越し、仕事の状況、経済状況、あらゆる条件で分断されてしまえば、共感によって成り立ってきた女同士の友情はもろい。


変わりゆく者同士で良好な関係を保ってゆくには、おたがいのたゆまぬ努力、すなわち思いやりの維持が必要不可欠だ。

どちらか片方だけが頑張っていても、両思いでなければいつかは破綻する。

綺麗に切れればまだ良い方で、どちらに未練があるのにどちらかが離れたいなんて場合はもっとこじれる。


そう、人付き合いって都合のいいもんじゃない。

一度関わりができれば維持する努力は必要だし、すでに気持ちがないのに維持していかなければいかないような義務感や気まずさも生まれる。

してもらったらそのぶん返すのが暗黙の了解だ。祝ってもらったら忘れずに祝わなければならないし、おたがい同じぐらいの頻度で声を掛け続けなければ自然と疎遠になっていく。

それは当然おたがい様なんだけど、その密度や人数が多くなると心底うんざりし、すべてを投げ出して自分の殻に篭りたくなってしまうのが私だ。悲しいかな、結局それが私というモンスターなのだ。


とはいえ繋がりの大切さが身に染みているからこそ、すっぱりとすべての縁を断絶することはできない。今ある貴重な繋がりは大切にしたい。

ただ、自分にとって「一人で過ごす時間が最も充実感があり、大切な時間なのだ」と自覚できた進歩は大きい。


それならば無理して人と濃い関わりを持つ必要はないし、疎遠になることを恐れなければ気の進まない誘いはお断りしてよい。もちろんその分の「あなたのことは大切に思っていますよ」というフォローは必要だ。

私はこういう性質の人間です、というのを恐れず示していくこと。変な奴だと思われたらそれでもいい。無理して合わせて我慢の限界になって爆発して「こんな人だったの!?」と驚かせるより100倍いい。

案外そんなスタンスの方が本当の友達ができるんじゃないだろうか。一人が好きで決して群れない人、一人で日本全国どこでも行ってしまう同士とは、大人になってから出会った。もちろんお互いそんなふうだから友達関係には発展しないけれど。


それまで友達であっても、合わなくなってきたら適切な距離を置いていい。完全に縁を切ったりはせず、嫌いになる前に離れるだけ。そうすればまたいつかまた仲良くできることもあるだろう。

行きたい場所には一人でも行けないか考えてみる。慣れるまでは心細いかもしれないが、自分がしたいタイミングでしたいことを叶えられたときの満足度は格別だ。


 
つまり、“友達”の存在に振り回されず、自分自身と親友になること。それがいちばん最強の生き方なのだと思う。

人付き合いを完全に絶つ訳じゃないけど、人付き合いに「こうでなければ」と理想を持つことを諦める。それだけのことでかなり気が楽になった。
 

人は一人では生きていけない…確かにそうだと思う。愛を養分とし、孤独に負ける生き物だからだ。でも、そんな言葉には振り回されなくていい。

どのような人との関わり方が自分にとって心地よいのか、ぜひ自分軸で考えてみてほしい。

 

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