短期留学(ほぼ旅行)の備忘録③
5日目
本日はカンチャナブリ、森の中にある、養護施設を訪問。ここには18歳までのこども約100人が生活を共にしている。
ここで生活しているこどもたちは、親と死別していたり虐待を受けていた子たちである。養護施設に来るまでは、栄養失調や親からの虐待により心神喪失になった子がほとんど。この養護施設では、生きていくうえで必要な知識と教養、栄養と愛情を与えている。その為職員は住み込みで勤務し、こどもたちは自分の家に帰ると同じように2,3人で1つの家に暮らしている。
外国人の私たちを温かく迎えてくれた彼らはおそらくここで優しさに包まれているのだろうと感じることができた。
親も子を捨てたくて捨てたわけではない。そもそも親自身も親からの愛情なく育ち、愛情を知らずここに連れてこられた子。家族を支えるため必死に働いた結果心が壊れアルコール依存症になってしまった親。離れ離れになるしか方法がなかった。
日本にも養護施設があることは知っていても、施設を訪問したことは一度もない。その為、ここを訪れるまでは実態を知ることはなかった。今回訪問し、話を聞くことで少しずつ色んな事情を知ることができた。タイで訪問した養護施設は、存続のために各大学や病院、ボランティアからの支援を受けている。養護施設での教育は仏教の教えを活用し、戦争や破壊のない平和な世界を望むこと、テクノロジーについて勉強し外の世界でも生きていく術を身に着けさせる。生まれた場所、育った場所をが違うからと言ってそこで腐らないでほしい。そしていつか自分を捨てた親の世話ができる子に育ってほしいという施設の願いが込められていた。
こどもたちも共同生活を送る中で衝突することも出てくる。その時施設としては、衝突はしても良いがその後のケアを大事にしていた。時間をおいて話を聞き、最初は反発しているこどもも徐々に自分と向き合い、思いを口にしてくれるようになる。愛に包まれながら成長できているのだと思った。
この不安定な世の中で、優しさと愛を持つ強い人間はどれくらいいるのだろう。本当は人間全員そうであるはずなのになぜ略奪や破壊をしてしまうのだろうか。誰かを蔑んだり恨むことでしか守れない正義はあるのか。必要なのか。宗教や民族、国家に関わらず共生することはできないのだろうか。
命を削ってまでする競争に意味はあるのかと考えずにはいられません。
6日目ついにタイ語を学びます
今回の名目の1つ「語学」がようやく始まります。我々、サワディーカー&コップンカーくらいしか知らないタイ語ど素人。ここからどこまで成長できるでしょうか。
語学初日は、タイの概要とタイ語のさわりを学びます。
タイって昔はシャム国だったらしい。シャムといえば猫だ!タイのシャム猫は幸せの象徴?招き猫的存在なのだとか。シャム猫を飼ってるお宅はちょっと羨ましがられたりするんだって、可愛い文化♡
現国王はラーマ10世。街のいたるところに肖像が飾られていました。毎朝8時くらいにタイの国家が流れてみんなそのタイミングは直立で流れてくる音声を聞いていました。ここで不動でない人は不敬罪で逮捕されたりするらしい…(外国人はその限りではないが、不動でいたほうが無難ということでした。)
タイ語は母音と子音と声調で出来ている言語。この声調が引くほど難しい。どこの国にも声調ってあるらしいけど、東南アジアと中国の声調が一番厳しく聞き取られる気がする。声調が違うだけで本当に伝わらない。最後まで使い分けられなかった、残念。