2021年を振り返って
もう2022年の1月も下旬になりましたが、昨年を振り返ってみます。
1.出会い
年明けから春先までは、ひたすら文字起こしの作業をしていたことくらいしか憶えておりません。
失業したのをいいことに、「無名人インタビュー」の音声をひたすらテキストにする日々。何十本という数です。
私にとっては、知らない人の考え方や生き方を知ることができて、とにかく楽しかったのですが...「あんな作業を、よくやっていますね」と褒めてくださる方がとても多くて驚きました。苦行なのだそうです。
そのおかげで、生まれて初めて自分にも特技があるのだと自覚することができました。
「無名人インタビュー」、ありがとう!
創始者であるqbcさん、ありがとうございます!
もともと、きっかけになった私のインタビューは、2020年でした。↓
記事の掲載は、2021年です。
そして、「無名人インタビュー」のインタビュアとしても少し活動することができました。
友人が声をかけてくれたり、見ず知らずの方が応募してくださったり、Clubhouseで知り合った方のお話を伺うことができたり。
インタビュアとしては申し訳ないほど下手ですが、下手なりに初めて編集したり、記事にいいねを付けていただいてうれしい気持ちになったり。
noteに参加していて良かったです。
5年近く前の春から、佐藤涼子先生の第二教室Paceにて蟻先生(BIOGRAPHYご参照)による「作詞と言葉のレッスン」を受講し、途中からボイストレーニングもしていただいています。
2021年は、佐藤涼子先生のたくさんのテレビ出演などで、テレビ画面やSNSで、佐藤先生や蟻先生のお顔やお名前を拝見することが多くありました。
そのたびに、私にも僅かに接点があることに、とても不思議なありがたい気持ちが湧いてきて...ぽかぽかするのを感じました。
人様の幸せや出来事が私の幸せにもつながるのだと、とても明確に実感できることがうれしかったです。
それから6月ごろに、とある出会いがありました。
9月には一緒に暮らしはじめて、マンチカン6歳、アメリカンショートヘア4歳、ボストンテリア2歳、そして一昨年から一緒に暮らしてきたスコティッシュフォールド1歳に囲まれる毎日が始まりました。
どうして、もっと早く人間以外の命と生活しなかったのだろうかと思っています。
何十年間を生きてきて、何も見返りを求めない自分の行動が、幸せだと感じられることを知りました。
そして、私に対してこれほど優しい他人(人間)がいるのだということも、初めて知りました。
たぶん、「幸せ」というものを客観的ではなく、主観的に感じているのだと思います。
2.経済的な苦況と小さな光
春に少し就業したものの、職場が合わず、スキルの不足も痛感しました。
その後は3桁の求人や派遣案件に応募しているものの、年が明けた現在まで全滅です。
経済的には本当に大変で、失業給付が終了してからは、わずかな蓄えをできるだけ少しずつ取り崩しながら、今はもう5ヶ月目を過ごしています。
物価は食料品も確実に上がってきて、社会保険料や税金もある中、これからどうすれば暮らせるのかと、今も途方に暮れています。
ただ、その状況を小さな声でボソボソ言い続けておりましたら、年の終わり近くに内職のような形ではありますけれど。
文字起こしをお仕事の価格でご依頼いただいたり、あるデータ入力をお引き受けしたら喜んでくださって、有償にしていただけたりといったきっかけを頂戴できるようになったことは、大変ありがたいことです。
ココナラ経由ですが、小説の校閲もご依頼いただきました。
「記者ハンドブック」を何十回も見て確認しながら作業し、とても良い経験になりました。
noteでのご依頼は、こちらからどうぞ。↓
一昨年、noteのサークルに参加したことで、フリーランスの方々が思いのほか大勢いらっしゃることを知りました。
2021年も、引き続き関わり続けることができているのですが、その中で、もしかすると私は就業形態として、お勤めするよりもフリーランスの方が合っているのかもしれないと感じはじめていました。
ただ、存じ上げているフリーランスの方々は、音楽を作っていたり、映像を作っていたり、絵を描いていたりと才能を発揮したり技術を提供していらっしゃいます。
私には何もできることがないという、そういった違和感も同時にありました。
今は、就業形態を考えたい時期に差し掛かっているような気がします。
ある方の占いによれば、私はお勤めが合わない人なのだそうで...もしそうなら、今までずっと無理ばかりしてきた人生だったのだなと。
3.これから
2022年になってからは、小さいながらも新しいことを見つけたり、試みたりしています。
それについては、おそらく今年の終わりか来年、振り返ることになるのだろうと思います。
どんな方向を向けば良いのか、何を目標にすれば良いのかというところから探っていくというのは、もっと若い時代に行うことが多いのかもしれません。
経済的な問題が大きいのは変わりませんが、それでも、ようやく主体的な人生になってきました。
何の価値もないと思っていた私に何かできるのか、残りの人生で確かめてみたいと思います。
いつ何があってもおかしくない時代に、私の余命はどれくらいあるのかな。