この身体を愛せて
国際女性デーになんとなく記事を書き始めて、もう6本目になるらしい。
今までの記事はまとめてあるけれど、見てみると、激流のように自分のジェンダーと衝突していた時期をこえて、いまはさわやかな川の流れの中に生きているように感じる。
前提として、国際女性デーというのはミモザを売る日・買う日ではない。
世界には、本当にまだまだまだまだまだまだ、女性の権利が認められていない国や地域や場所がたくさん、たくさん、たくさんある。
今自分にある権利とそれを作ってきた先人たちの努力に感謝すると共に、その権利をパワーに変えて多くの"女性"たちと権利を獲得したい、と心に刻みたい。
すべての女性と、
女の子と、
女性として生まれてきたひとたちと、
女性だと思っているひとたちの日。
お祝いと感謝と、そして決意の日であると思っています。
あ、でもミモザはマジでかわいい。
あとミモザの日ではある。
ここ数年の花屋すごくない?
バレンタインデーをチョコレートの会社に取られて怒ってんのかな?逆襲?
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さて、
ジェンダーフルイッドという、自分にとってめちゃくちゃ"都合が良く"て使いやすい性自認と生きていても、どうしても自分の体に納得がいかない日々は続いていた。
女性の体で感じるよろこびと、身体を見ることによって感じる「絶対的な女性(幻想)」のバランスがぜんっぜん取れなかった。
25をすぎてしばらく経ったあたりからか、明らかに体質が変わっている、、、と感じることが多々ある。たとえば食べる量とかお酒の酔い方とか、生理痛の質とか、さまざまな欲求の強さのバランスとか。
その中でだんだんと「体のつくりとか、まじでどーーーーでもいいわ」と思うようになっていたのだ。
胸のサイズは小さいけれど、さわるとふわふわでなんかかわいい。
おなかもぽよぽよなのはちょいと問題だが、さわるときもちいい。ぽよぽよしている。
手足は割と長くて、全体的に細くて、顔が小さい。あと身長はどちらかと言うと高い。
肌は弱いけれど白くて、もちもちしている。
これがぼくで、やまこしで、この身体と今日も明日も生きている。嫌だとか諦めとか受け入れとか、そういうレベルじゃなくて、そこにあるものだ、となっていた。
これはいささか奇妙で珍妙で、なんだかふわふわとした気分だが、それと同時に面白いし、気持ちがいい。
不快と快だったら快の方が圧倒的にいい。
あのときの激流のように怒り、自分の中だけでたくさん衝突していた時間も少し恋しい。あれがなければ生まれなかった言葉も、キャラクターも物語も、山ほどある。あの日々を否定するつもりはないし、あれがあったから今を「快」だと感じるわけだ。
ただ、ちょっと恋しい。
激流のようなぼくも、いまなら今のぼくくらい愛せるかもしれない。知らないけどね。無理かもしれんが。
これから流れていく川の中で激流に巻き込まれることがあると思う。でも、ぼくはもう、さわやかなせさらぎを知った。とりあえず、笹舟とか流して遊んどこうと思う。