インタビューその12:まちを「みんなの茶の間」に変える人
イラストレーター&文筆家・陽菜ひよ子です。
今回の記事はインタビュー企画です。わたしのまわりにいる「クリエイティブな活動をしている人」に「仕事や創作」について赤裸々にきき、その人の「クリエイティブのタネ」を見つけよう!という企画の第12回。
今までのインタビューは↓コチラでごらんになれます。
今回お話を伺ったのは、まちづくりコーディネーターの名畑恵さん。
名畑さんの略歴など。
今日は「まちづくり=まちをクリエイティブする」というお話。
名畑さんのまちづくりは、先進的な街をつくるというより、人がしあわせに暮らせる「コミュニティとしてのまちづくり」が基本です。
先月の6月、満を持して名古屋市中区錦二丁目にオープンした「七番」は、まちに住む人、働く人、遊びに来た人の誰もが気軽に集える場所。
「七番」のコンセプトに共鳴した多くの人が、クラウドファンディングで協力しました。目標の1,000人には届きませんでしたが、760人もの人の心を動かしたというのは、本当にすごいことです。
詳しくは、6月発行の中日新聞の広報誌にわたしが名畑さんにインタビューした記事が載りした。
お話を伺って、しみじみ「まちづくり」のために、そこまで頑張れる原動力ってすごいって、興味を持ったんです。
そんな名畑さんの原点って何だろう?って。
名畑さんとは、かれこれ7~8年くらいのお付き合いです。
共通の友人に「住まないシェアハウス」を主催しているBちゃんがいます。
名畑さんは、たまにそのシェアハウスで会う人、でした。
名畑さんはいつも忙しそうで「今日もお昼抜きだった」と、夕食の席でランチのお弁当を広げていました。そんなに大変なのによくボスについて行ってるなぁ、と思っていたのですが、それもそのはずで、ボスはホントスゴイ方だったんです。
シェアハウスには、名畑さんのボスである延藤先生もいらしていました。
でもわたしもホントたまにしか行けないので、延藤先生とはほとんど話せないまま、数年前に亡くなられてしまいました。
ご存命中から素晴らしい方だとは伺っていたのですが、今回インタビューしてみて、ああ本当になんて惜しいことをしたのだろうと感じます。延藤先生とお話しできないままお別れしてしまったことは、一生悔やまれることです。
せめて延藤先生と名畑さんの軌跡を残せたので、このインタビューができてよかったです。
プロローグ:建築からまちづくりへ
延藤安弘先生との出会い
――――名畑さんは、春日井市のご出身(名古屋市近郊の都市)なんですよね。
名畑:そうですー。愛知県から出たことがありません。就活もしてません。
――――大学を卒業して、そのまま延藤先生のところへ?
名畑:そうなんですよ。
――――名畑さんは、延藤先生と出会う前から、まちづくりの勉強をしていたんですか?
名畑:わたしはもともと建築を勉強していて、はじめはまちづくりは自分には関係ないと思っていたんです。
延藤先生は、都市計画や住宅建築をされる中で「家というのは、いい暮らし、いい人生を作るためのモノで、扉の外も住まい=コミュニティなんだよ」という考えをお持ちでした。
「人が機嫌よく暮らすために、住みやすい街をつくる」というのが、延藤先生の考え方の根本にあるんです。
――――なるほど。「暮らし」の延長にまちがあるんですね。名畑さんは、まちづくり自体に、もともと興味はあった?
名畑:いえいえ。ホント単純に建築やデザインがカッコイイ―とか、そんな感覚で建築を捉えていました。
――――それがフツーですよね。
名畑:そうですよね。そんなわたしにとって、延藤先生との出会いは衝撃的で。でも、文化のみちにある橦木館(※1)で最初に先生に会ったとき、わたしは「カメラ小僧」だと思ってたんですよ。先生はスライドを見せながらみんなに話してたので。
(※1)文化のみち と 橦木館
名畑:大学で建築を学んでると、教科書に延藤先生(※2)の名前が出て来るんですよ。一級(建築士)も二級も、事例が出題されるんですが、いちばんよく出題される中に延藤先生のプロジェクトが入ってるんです。
京都市あじろぎ横丁やユーコート、Mポートなど、コーポラティブハウジング(※3)の分野では、バリバリの権威だったんですよね。
(※2)延藤先生ってこんな方(Wiki)
(※3)コーポラティブハウスとは
――――スゴイ方だったんですね。
名畑:そうなんです。橦木館でもファンの人たちと一緒に展示をしていたり、先輩たち研究生も、延藤先生の教えを求めて入ってきたりしていましたから。
当時橦木館に集っていた建築家たちは、亜流の人や変わった人が多かったのですが、延藤先生も市民活動家であり、研究者、実践家という、相当不思議な立ち位置でした。ご自分では「自分は社会運動家なんやけど、イズムよりリズムが大事やね」っておっしゃってましたよ。
――――なるほど、カッコイイ建築作るぞーってのが主流だとしたら、人の暮らしをよくするぞーという建築家はかなり変わってるし、社会運動的でもありますね。
名畑:わたしも延藤先生の考え方に惹かれて、本や論文を読み漁りました。先生は大学を点々とされていたのですが、延藤研は大学が違ってもつながりがありました。先生がプロジェクトでつなげてくださったんですよね。
それで、椙山女学園大学で村上先生に学んだ後、当時、延藤研があった愛知産業大学大学院に進みました。それが延藤先生との長いお付き合いのはじまりです。
ルーツは子ども時代の想い出
母への憧れ
――――さて、今日は名畑さんへのインタビューなのですが、このまま行くと延藤先生のお話で終わってしまいそうなので、ここらで軌道修正して過去にさかのぼり、子どもの頃のお話など聞かせてください。
名畑:子どもの頃は弱虫で恥ずかしがり屋でした。
今思うと、人と話すうちにヒントを得たり、会話の中に答えを見つけることが多かったんです。それが結局は今の仕事につながるんですよね。
今の「まちづくり」の仕事って、本当にひたすら、まちの人の話を聞いて調整をする役割で。こんな仕事があるとは、若い頃は知りませんでしたが。
――――上に立つ人って、そういうものなのかもしれませんね。
名畑:いえいえ、もう叱られてばっかりです。
最近になって、今の仕事のルーツは、母だったんじゃないかって思うようになったんです。自覚したのは本当に最近で、女同士ですから、子どもの頃はぶつかることも多かったんですけど。
実は母にはすごく憧れていて、憧れゆえの反発だったんじゃないかって、気づいて。
――――娘さんに憧れられるお母さんって素敵ですね。どんな方だったんでしょうか。
名畑:母は自宅で「名畑塾」という学習塾を開いていて、英語と国語を教えていました。数学は別の先生にお願いして。
わたしが母をすごいと思うようになったきっかけというのが、あるとき近所の男の子に言われたことで。
彼は「名畑の母ちゃんがいなかったら、〇〇はひきこもりのままだった」って言うんです。登校拒否の子がいて。
母の塾は、そういった「学校や家庭に居場所のない子ども」の拠りどころになってたんですね。塾以外に子どもを集めて催しをしていたので。ボーリングやBBQ、クリスマス会など、年中いろいろやってました。
――――お母さまや塾の存在に救われた子どもがたくさんいたんですね。
名畑:でも、母は決して面倒見のいいタイプではないんですよね。
ただ「突き抜けた明るさ」がある人で、すごいドジをするんですよ。もう周りが引いちゃうくらいの。
それを見ていると、つい笑ってしまって、気が楽になるんです。それで救われた子も多かったのかもしれません。
――――その「ドジ」は、狙ってやってるわけじゃないんですよね?
名畑:全然。母は天然なんですよね。
――――・・・名畑さん、似てませんか?
名畑:よく言われるんです、「お母さんそっくりね」って。自分では母とは正反対で、父親似だと思ってたんですが。
最近思うのは、わたしが子どもの頃、家にはいろんな人がいて、それが「当たり前」だと思って過ごしてきたのが、大事なことだったんだなと。
いろんな人と会うのが、全然苦じゃないんです。それはホント、今の仕事にすごく生かされていますね。
塾を始めたきっかけ
――――英語の塾は、どういったきっかけではじめたんですか?
名畑:母はミッションスクールの出身なんです。
母は横浜出身で、米軍が身近な環境で育ちました。外国の宣教師と接することも多くて、英語が得意だったんですね。米軍相手のクラブのホステスのアルバイトに応募して、受かったのに怖くなってブッチしたそうで、
――――受かっただけでもスゴイ!おきれいな方なんでしょうね。名畑さんには似てますか?
名畑:あ、顔はあんまり似てないです。
母は、ギブミ―チョコレートと軍人さんにねだって、子どもの頃からチョコを食べていたそうですが、岐阜出身の父は、チョコを初めて食べたのは東京で、成人してからだったそうです。
母の英語力を買われて、父の会社に外国人のお客さんがいらしたときに、我が家でお世話することが増えたんですね。それで、外国のお客さんがホームステイしているときに、近所の子を集めて英会話の会を始めたんです。
そしたら、近所の人たちから「英語塾をやって欲しい」と言われるようになったというのが、塾を始めた経緯です。
――――最初から塾の先生を目指してたわけではないんですね。
名畑:そうですね、なので、勉強だけを教えるんじゃなくて、いろんなことをやっていました。マナー講座とか。フォークとナイフでステーキやバナナを食べたり。
――――バナナ?フォークとナイフで食べたことないかも。楽しそうですね。
名畑:母は「好きなことをやればいい」という主義で、成績を上げるというだけが塾の役割とは考えてなかったんだと。それでも伸びる子は伸びるんですよね。
自宅でやってるような小さな塾でしたが、たまに賢い子がいて。のちに有名国立大へ入学したような子もいました。
――――素敵な塾ですね。今も続いてるんですか?
名畑:塾はわたしが中3のときに辞めました。私の義務教育が終わるときに終了すると決めてたようです。母は忙しかったんですよね。昼間は正社員でお勤めしていたので。
――――ええっ!お勤めされてたんですか?塾だけだと想定しつつお話を伺ってました。
名畑:いえいえ。母は出版社で所長をしてました。部下もたくさんいて、昼間はミッチリ仕事して帰り、夜は塾をやっていました。
――――すごい!お母さま、スーパーウーマンだわ。
名畑:母の何がスゴイって、わたしは子どもの頃、さびしいと思ったことがないんですよね。塾は後に別棟を建てましたが、最初は家の中で教えてたんです。
2人の兄の小さな頃から始めたので、わたしが生まれる前から塾は開いていました。母は小さなわたしを膝にのっけて教えていました。
家の中には、教材をガリ版刷りするインクのにおいがいつも漂っていて。兄妹3人でコロコロと手伝っていました。
しあわせに生きるための場所
趣味と得意技
――――子どもの頃から「地域のコミュニティの場」にいて、その中心にお母さまがいらしたんですね。お母さまは天性のものをお持ちで、子どもたちを伸ばしたり救ったりされていたと。
名畑さんが憧れる気持ち、わかる気がします。それに、やっぱり似てらっしゃると思います。
名畑:いえいえ、親子ともだらしなくて、ツッコミどころだらけです。「なばちゃんは『失くすのは趣味で、見つけるのが得意技だね』」とか、よく言われます。
――――うまいこと言いますね。最初にお会いした時に「よく自転車を失くす」と伺ったのが、なかなかに衝撃的でした。
名畑:今もよくやって、いつも探してます。「探し物って結局は無駄な時間なんだよ」って叱られてばかりで。
――――そうやって叱られて、落ち込んだりするんですか?
名畑:いえ、全然気にしないんです。
自分が悪いことは直す努力はできるんで、落ち込むというより、ありがたいなと思います。あと自分が怒ってしまったときには「怒ってる方が正しいとは限らない」と反省することはありますよ。
――――なるほど、確かに、そうかもしれませんね。名畑さん、やっぱりおもしろいですね。
ココロの中の「ふるさと」
――――名畑さんといえば、お父さまのことをよくSNSに上げてらっしゃるイメージです。すごく手先の器用なお父さまで、つくられる作品が素晴らしくて。お父さまの影響はいかがですか?
名畑:小さい頃はお父さんっ子でした。
父は手作りが大好きで、リタイア後は一層熱心に趣味で版画や仏像を彫ったり、実家のある郡上八幡のふるさとを再現するために、茅葺屋根のミニチュアの家を作ったりしています。
父の地元・郡上八幡は、なぜか「ふるさと」だと感じるんです。年に1~2回行くだけで、一度も住んだことはないはずなのに。
子どもの頃、父の家には、近所の人が集まって来て、みんなで庭に車座になって、火を囲んで鮎を焼いて食べたりしました。
誰かに強制されるわけじゃなくて、何となく集まって。「自分のリズム」で好きにしてていいんです。ずっと輪の中にいなくても、一人になりたかったら離れてもいい。
あれが、わたしにとっての原風景なんですね。
カッコよさから居心地よさへ
建築家を目指して
――――建築に興味を持ったのは、何がきっかけですか?
名畑:高校時代にNHKの日曜美術館でマッキントッシュの作品を見て、ですね。もうしびれて。好きになりました。それで図書館で作品集を見まくって。建築家を目指したいと思うようになりました。
わたしは春日井高校の出身なんですが、ウチの高校、ほとんどのクラスが理系で1クラスだけが文系なんですね。で、わたし、よりにもよって文系だったんです。建築を受けるには5教科が必要で、しかも数学は必須だったのに。
――――あらま・・・
名畑:3教科入試で建築を学べる大学って、当時2校しかなくて。それが日本女子大と椙山女学園大(名古屋市)なんです。なんと、その2校の受験日が同じ日で、それで椙山一本に絞りました。
――――・・・無事受かって何よりです。
名畑:「生活環境学部 生活環境学科」に入学しまして、ここがすごいんです。衣食住すべての学科なんですよ。建築だけじゃなくて、服飾デザインを学ぶ人もいるし、まんべんなく取って家庭科の先生になる人もいて。
――――すごくおもしろそうですね。名畑さんはモチロン、建築にとっぷり浸かってたんですよね?
名畑:そうですね、チームでコンペに出したり、小さな仕事を請け負ったりしてましたよ。
アイデアが実施で形になるのが楽しくて。大きなコンペで最終選考に残って大阪まで行ったりもしました。
――――スゴイですね!続けていたら、違う道が開けていたのかもしれませんね。
名畑:大学2年で延藤先生と出会って、それまではまっていた意匠建築の世界が、ガラガラと崩れました。
振り返ると、延藤先生との出会いで、建物という「箱」をつくることから、その「箱」の「中の人」がどう生きるか、ということへ、興味が移って行ったんですね。
箱から空間へ
――――名畑さんをそんなに引き付けたモノは何だったんでしょうか。
名畑:最初にお話ししたように、延藤先生とは、文化のみちにある橦木館というところで出会ったんですが、橦木館に集まる人たちが、とにかくカッコよかったんです。
――――当時(約20年前)は先端のオシャレな人たちが集まる社交場のような感じだったんでしょうか。
名畑:工業デザイナーや建築家が事務所として使っていました。「自由空間」というカフェが素敵で。
庭で演劇や落語会やアートイベント、延藤先生の「まちづくり幻燈会」が行われたりして、濃密な時間を過ごしました。この素晴らしい場所、橦木館を守りたい、そんな気持ちでいっぱいでした。
まだ学生だったわたしにとって、橦木館で出会った人たちは皆「カッコイイ大人」で、憧れの存在だったんです。
市民運動の成功体験
名畑:橦木館の周辺は、現在「文化のみち」として保存されていますが、当時はまだそういう意識がなくて。
そこで、まち歩きをして、私たち学生で、まち全体のイラストマップを作りました。それで、橦木館の建物単体ではなく、周辺の「まち」が大事だと気づきました。
延藤先生たちの市民運動がかなって、建物が守られ、夢がかなう「成功体験」が身近に思えたんです。つながりを感じて、楽しかったです。
――――今の「文化のみち」があるのは、延藤先生や名畑さんたちのお陰なんですね。
名畑:いえいえ。私はまだ学生で顔を出してたくらいで。
でもわたしは、橦木館で大人の世界に入って、巻き込まれてしまった。いろいろつらい想いや人間関係で悩んでも、逃げ出すことができなくて。
そういう想いはなかったことにはできないし、いろいろな想いを抱えたままで、結局今も当時のメンバーとずっとやってる感じです。
――――そうですよね、ずっと仲良く、楽しくというわけには行きませんよね。
名畑:延藤先生の活動に惹かれて飛び込んだ世界が、もうわたしにとっては「社会の入り口」だったんです。自分では意識せず「生きる世界を見つけてしまった」んですよね。
夢のかなえ方
バレエとアクセサリー
――――名畑さんといえば、よくバレエのイベントをなさっていて、そのイメージが強いですが、バレエはご自分でもなさってたんですか?
名畑:子どものころなりたかったのは、バレリーナかアクセサリーのお店屋さんです。
小5まではバレエ、一生懸命頑張ってたんですよ。先生が厳しくて。でもその先生が大好きだったんです。
――――ドM?
名畑:あはは。怒られ慣れてるんですね。
バレエはいずれは専門学校に行くために上京しようかとまで考えてました。でも、コンクールや発表会に出たりしたのは小5まで。
その先は趣味にしようと決めました。好きだけど趣味のまま、ゆるゆるレッスンするのが楽しくて。今は見るのが好きです。
――――Bちゃんの「住まないシェアハウス」でも「バレエナイト」やってましたよね。
名畑:やってました!独断と偏見でバレエの演目と、それに合ったワインを選んで、Bちゃんが料理して。Bちゃんのところ以外でも、渋谷とかでもやってたんですよ。
今もやっぱり、バレエもアクセサリーも大好きなので、これから、もっと年を取ってから、本当にやりたかったことをやり始めてもいいのかなって、最近は考えてるんです。
夢と七番
6/11に、延藤先生、そして錦二丁目の人々の悲願の「七番」がオープンしました。
「七番」は喫茶店とフリースペースから成る「新しいまちづくりの拠点」となり、名畑さんの会社・錦二丁目エリアマネジメント株式会社はそのほかに4つのお店の大家さんにもなりました。
4つのお店の中にはアクセサリーのお店もあるし、フリースペースではいずれまた「バレエナイト」もできるし。
ここまでの道のりはすごく大変だったと思いますが、名畑さんにとっても、すごくワクワクできる場ができたのでは、と感じます。遠回りだったかもしれないけど、名畑さん、ちゃんと夢をかなえてる、こういう夢のかなえ方も「アリ」なんじゃないかな、と感じました。
名畑さん、素敵なお話を、ありがとうございました!