千本ノックは野球選手を裏切らない
昔、ある知人がこう言うのが不思議だった。
「わたしって全然写真がうまくならないの」
そう言って、液晶で自分の撮った写真を見ながら首をかしげる彼女。
彼女は、カメラを持ち歩いているわけでもなければ、写真展に足を運ぶことも、写真の技法書を読むことも、もちろんない。
それどころか、集まりの際に彼女自らがみんなの写真を撮ることすらまれ。一時期の数年間、毎週のように顔を合わせていたけれど、彼女が写真を撮るのを見たのは数えるほどしかない。
「えーっと、あなたのその行動で、一体どうやったら写真がうまくなるんでしょうか?」
とは一度も突っ込まなかったけど、喉元まで何度も出かかった。
撮りもしないのにうまくなるわけがない。それこそ、野球の練習をすることなくマウンドに立っても、打てるはずがない。(まぐれ以外では)
日々の積み重ねがあってこその上達なのだ。
たま~に、「じゃ、撮りますよ」とスマホを構えて記念写真を撮るだけで、本当に写真が上達すると思っているのだろうか。
だとしたら、勘違いも甚だしいし、写真をなめるなよ、と思う。
数をこなせばうまくなる、という当たり前のこと
その知人と付き合いがあった頃は、まだ今のオットと知り合う前。オットがカメラマンになってからは余計に、上記のような想いを強くするようになった。
それどころか、オットの写真に対する真摯な姿勢を見ているうちに、私自身も恥ずかしくなったほど。
撮っている数が、違うのだ。
出かければ、少なくとも一日に数百枚は撮る。多ければ700枚、平均して500枚くらいは撮るのだ。
歩いていても、突然立ち止まって撮るし、信号がいくつか変わるまで撮り続けることもある。
普段は協調性の塊のような人で、すべてにおいて、わたしを優先してくれる彼が、カメラを持つと、人格が変わるのだ。
いつもは穏やかな大型犬のようなのに、写真を撮るときには、肉食動物のようになる。ゴールデンレトリーバーが、飢えた豹に変身してしまうのだ。
「好きなこと」に夢中になっているときって、そういうものなのだろう。
だから数をこなせる。だから「好きなこと」は上達が早いのだ。
でもどうして、わたしたちは、そんな「当たり前」のことを忘れてしまうんだろう。
自分への戒め
こういった「とにかく数をこなしましょうね」的な記事を、実はわたしは定期的に書いている。読んでいる方の中には「既視感」を覚える人もいるかもしれない。
なぜなら、これは何より自分自身への戒めだからだ。
わたしは絵描きなのに、仕事以外ではほとんど絵を描かない。
最近では毎月、月末になるとTwitterにほかの絵描きさんたちの「今月描いた絵をさらそう」というハッシュタグが流れてきてあせる。
ああ、今月もオリジナルの絵がない。。。
と言いつつ、ふふふ。
実は昨日、久しぶりにオリジナルの絵を描いたのだった。
意気揚々と挙げてみた。
こんなわたしが言うよりも、100万倍説得力のあるオットのnote。