インタビューその3:りぼん男子がデザイナーになったら、夢が全部かなった話
イラストレーター&文筆家・陽菜ひよ子です。
今回の記事はインタビュー企画です。わたしのまわりにいる「クリエイティブな活動をしている人」に「仕事、創作について」など赤裸々にきき、その人の「クリエイティブのタネ」を見つけよう!という企画の第3回。
今までのインタビューはコチラでごらんになれます。
今回お話をうかがったのは、装丁家(ブックデザイナー)の宮川和夫さん。
宮川和夫さんの略歴です。
宮川和夫(みやかわかずお)
装丁家。1960年、長野県戸隠生まれ。
1983年、武蔵野美術大学基礎デザイン学科卒業。
幾つかのデザインプロダクションを経て、1996年、宮川和夫事務所設立。
元(一社)日本図書設計家協会会長。
文星芸術大学非常勤講師。京都芸術大学非常勤講師。
「実践装画塾」主催(2010-2017年)。
宮川先生との出会い
宮川先生(とわたしは呼んでいる)とは、2013年に北青山にあるGallery DAZZLEで知り合いました。
DAZZLEさんでは、2010年から2017年まで「実践装画塾」というワークショップを開催。宮川先生はその講師を担当しておられました。
ここで「装丁」と「装画」についておさらいしておきます。
「装丁=ブックデザイン」とは、書籍に特化したグラフィックデザインの一種。書籍のカバー・帯のデザインだけでなく、本文の組版から用紙の指定まで、一冊の書籍の造本を丸ごと設計する仕事です。
「装画」とは本のカバーイラストのことで、イラストレーターには人気の高い仕事です。そのため、装丁家による装画のワークショップが人気を集めています。
DAZZLEさんの「実践装画塾」は毎回すごい競争率のため、なかなか抽選にあたらなくて。「また落ちた」とくさっていたら、宮川先生から「名古屋に出張してもよいよ」とメッセージをいただき、2017年秋に「実践装画塾・名古屋」を開催。
そんなわけで、わたしにとっては正真正銘の「先生」なのです。
宮川先生とわたし
(『実践装画塾NAGOYA修了展』Gallery DAZZLE・2018年3月)
写真撮影:宮田雄平
戸隠の「マンガ少年」
――――宮川先生は、長野県の戸隠ご出身だそうですが、子どもの頃はどんなお子さんだったんでしょうか?
宮川:まずは戸隠について説明しないとね。ひよ子は戸隠来たことないよね?(わたし、うなずく)戸隠ってのは長野の北のほうで、新潟との県境の山ん中で標高1,200mなんだよ。
平安時代からある(紀元前210年に創建とも言われている)神社を中心につくられた村で、山岳信仰の霊場なんだよね。宿坊とか神主とかが世襲で受けつがれているようなところで。みやげ物屋やそば屋は何件もあるけど、本屋は1件もないような村で。
小学校までは片道2kmで、行きはひたすら下って、帰りはひたすら登るんだよ。中学に入ると今度は片道4kmになって。冬はすごいよ。吹雪で。
――――行きは、すべって行った方が早そうですね。
宮川:スキーですべってもいいけど、帰りはかついで登らないといけないからね。
吹雪で目の前がほとんど見えないんだけど、野生のカンでどっちの方向かわかるんだよ。だから死んだ人っていないんだよね。
――――少年時代は、マンガ家になりたかったそうですね
宮川:そうそう、マンガは大好きだったよ。最初はテレビアニメから入って。国産アニメ第1号の鉄腕アトムをリアルタイムで見た世代なんだよ。当時は情報がなくて。田舎だからテレビも民放が1局しかなくて。
次に少年マンガが好きになって、赤塚不二夫のマネしてコマ割りのマンガも描くようになって。小学校の卒業文集には「赤塚不二夫の二代目になる」なんて書いたりして。
その頃は真剣に「どうしたらマンガ家になれるか」を考えてて「それには東京に出ないと!」って思ってたよ。
――――小学時代にもう東京に出ることを意識してたとは、早熟ですね
宮川:それは環境も関係してて。村では本家と分家があって同じ苗字の家がいくつもあるのが普通なんだけど、宮川家は一件しかないんだよ。なんでかっていうと、宮川の家では本家以外は分家をつくらずに東京に出ちゃってたから。
だからお盆休みなんかに親戚が東京から来て、いろいろ話を聞くから、割と東京になじみがあったんだよね。小学校に上がる前年には、父親に連れられて東京に行って、羽田空港と上野動物園に行った。
――――上野動物園、パンダですね?
宮川:いや、まだパンダはいなかった。パンダが日本に来たのはオレが6年生の時だよ。日本はまだ戦争を引きずってて、高度成長期で、オレが10歳の時には大阪で万博があって。
――――10歳で大阪万博って『20世紀少年』みたいですね。
宮川:おお、そうそう。浦沢直樹とは同級生(1960年生まれ)なんだよ。
1970年代だからね、政治的には暗いけど、未来は明るい、みたいな時代だったよね。
大河の渋沢栄一の時代って、今からするとスゲー昔だけど、オレが子どもの頃は、せいぜい90年くらい前で、それほど前のことじゃなかったんだよ。
――――ああ、わかります。わたし1969年生まれなんで、100年前が明治維新なんです。あの頃はまだ徳川慶喜に会ったことある人とか生きてましたよね。
宮川:そうだよね。オレたちが子どもの頃って、明治生まれってすげえ年寄りに見えたけど、今、平成や令和生まれから見ればオレたちもそんな感じなんだろうなぁ。
マンガばかり読んでた少年時代
――――マンガは投稿したりはしなかったんですか?
宮川:中学に入ってからジャンプに応募したよ。
――――ジャンプ!王道ですね!どうでしたか?
宮川:箸にも棒にもひっかからなかったよ。「手塚賞」ってのがあって賞金が100万円だったんだよ。それを取った諸星大二郎が大好きで。こういうの描きたいなぁって思って。星野之宣も好きだったなぁ、スタイリッシュでね、確か愛知県芸出てるんじゃなかったっけな。
諸星大二郎と星野之宣、あの2人は双璧だったね。
諸星大二郎さんと星野之宣さん。
どちらも素敵ですね。(ひよ子・以下「ひ」)
――――絵とストーリーとどちらが得意でしたか?
宮川:絵の方だね。お話はあんまり・・・マンガしか読まなくて、本は読まなかったからね。
――――わたしも中学生くらいの頃はマンガばっかり読んでました。
宮川:オレは大学まで本はほとんど読まなかったよ。でも不思議なんだよね、本読むようになったら、今度は全然マンガを読まなくなって。
――――同じです。
宮川:小説読むようになると、今度はマンガ読めなくならない?(わたし、うなずく)あれ、なんでなんだろう?
戸隠の「りぼん男子」
――――宮川先生といえば、少女マンガがお好きだそうですが、少女マンガはいつ頃から読み始めたんですか?
宮川:高校生の時だね。オレは恋をしたんだよ。
オレが高校の頃って、男子の少女マンガブームがあってね。「早大おとめちっくくらぶ」ができて、東大には「りぼん愛好会」ができたくらい。当時の「りぼん」は大人っぽくて。
――――少女マンガ誌も今より個性がはっきりしてましたよね。「りぼん」は一条ゆかりとかが描いてて。
宮川:そうそう。「りぼん」はオシャレだったよね。
それで道具にも凝るようになって、Gペンとか買って。マンガの描き方の本なんかも買い込んで。どう描くか研究したよ。
――――高校は自宅から遠かったんですか?
宮川:高校は長野市で、市内まででるのにバスで1時間かかって、そこからバスや電車でって感じで、とても通えないから下宿してたんだよ。
――――下宿って、寮みたいな?
宮川:いや、ひとり暮らしだよ。最初はまかない付きで、途中から妹と同居してた。
――――自炊してたんですか?えらいですねー。わたしなんか高校卒業するまでチャーハンすらつくれませんでしたよ。
宮川:それもどうかと思うけどね。
――――少女マンガは賞に応募はされたんですか?
宮川:「ぶ~け」に応募したよ。タイトルは『猫のあたまにミルククラウン』。
――――ネコにミルククラウン!な、なんて乙女チックな!そして「ぶ~け」!懐かしい!!松苗あけみとか、大好きでした。
宮川:『純情クレイジーフルーツ』ね。よかったね。
――――ですです。絵が美しかったですよね。それなのにギャグタッチで。
宮川:だよねぇ。松苗あけみは確か一条ゆかりのアシスタントしてたんだよね。『少女まんが道』って自伝がおもしろいよ。
――――・・・なんでそんなにくわしいんですか?
(と、ここからどんどん『マンガ談義』に話が突き進んでいく。以下中略)
――――宮川先生は「りぼん男子」ですが、わたしは「マーガレット女子」でして。一番好きなのは岩館真理子なんです。
宮川:岩館真理子!!いいよねぇぇ~~~~~!!あの女の子の髪のふわふわッとした感じとか。
――――ですよね!!
(男性に岩館真理子の名前を言ってわかってもらえたのって、集英社のF編集長以来かも。。。)
いわゆるソバージュの女性が多く登場するんだけど
なぜかケバくないのが岩舘マジック。(ひ)
都会と田舎で見える世界
――――武蔵野美術大学基礎デザイン学科で、今のお仕事につながるグラフィックデザインを学ばれたわけですが、なぜ絵画ではなくデザインに進まれたんですか?
宮川:単純に美大受験のためだね。
油絵科でもよかったけど油絵描いたことなかったし、日本画は知らなかったし、基礎デは鉛筆デッサンと論文なのでここなら受かるかなと。
美大は、漫画家になるための準備期間だと考えて入学したんだけどね。周りに漫画家デビューするやつが出てきて、嫉妬するわりに自分では描かなくなったんだよ。
かと言ってデザインにハマっていったかというとそうでもなく。
大学は、不真面目で落ちこぼれの学生のまま卒業してしまったので、当時の同級生に会うと「宮川が装丁やってるとは思わなかった」って言われるよ。
――――大学時代には、マンガを読まなくなっただけでなく、描かなくもなったんですね。
宮川:大学で東京に出てみると、都会で生まれ育った奴らと自分との経験値が違い過ぎて、とても同じ日本に生まれたとは思えないんだよ。
たとえば中学高校時代に、学校帰りに映画見たりタコ焼き食べたりって生活してたやつらと、何もない雪の中をどこもよるところもなく、ひたすら歩いて帰ってた自分とでは、全然違うと感じたよ。
絶対的に取り戻せない時間があるんだよね、そこには。
――――わかります。(わたしの住む)名古屋はそこまで田舎ではないですけど、東京とはちがいますよね。
宮川:あと、田舎だと、家業をつぐことがほとんどだから、教養とか教育に力を入れるという土壌がないんだよね。オレが子どもの頃に本を読まなかったのもそういうことなんだな。
オレの父親はたまたま勉強好きで、自分にできなかったことをオレにさせたくて、大学まで行かせてくれたけど。村の小学校の同級生で大学行ったのって、オレ入れて5人だけなんだよ。ほかはみんな村に戻って、家業の竹細工屋ついだり、神主になったり。
――――宮川先生は地元に戻ろうとは思わなかったんですか?
親は帰ってきてほしかったみたいだけど、オレは都会が好きでね。特に神保町にあこがれてて。都会はやっぱり文化があるよね。
都会に生まれた人の中には、田舎にあこがれて移住する人ってのもいるんだろうけど。最初から田舎に生まれてしまうと、職業の選択肢すらなくなる。
――――教育の問題ですが、ウチは本は割と買ってくれる家だったんですが、子どもの頃に絵本を読んでた記憶がないんです。『ぐりとぐら』も絵本の勉強をはじめてから読んで。
宮川:オレも子育て中にはじめて読んだよ『ぐりとぐら』。オレたち世代の子どもの頃に、子どもに絵本を与えられた親ってのは、そうとう意識が高かったと思うよ。
オレは自分の子どもにはできるだけ選択肢を与えたかったけど、うちの子はふたりとも本を全然読まない子に育ってしまった。親がこういう仕事してて、家にあふれるほど本があっても、そういうものなんだね。
椎名誠さんとの出会い
――――大学時代に本を読むようになったきっかけは?
宮川:やっぱり椎名誠さんに夢中になったことかな。そこからいろんな本を読むようになった。
椎名さんは1970年代からずっと、すごい人気で、キラキラしてたんだよね。装丁家になったのも、椎名さんと一緒に仕事をしたいと思ったからというのもあるよ。
椎名誠さん(陽菜ひよ子/画・2018年・2021年加筆)
――――椎名さんの本もたくさん装丁されてますが、どのようなきっかけだったんですか?
宮川:それはもう売込みだよ。いろんな出版社の人に「やりたい」って言っていたら本当に来たんだよ。
それまで椎名さんの本の装丁は、錚々たる人たちが手がけてるからね。
――――そこに入れたのは、宮川先生も錚々たる方だからですよね。
宮川:いやいや、オレは全然そんなことないんだけど。でも宮川さんやってみませんかって言ってくれて。もう椎名さんに会うだけで舞い上がったね。
実はその前に椎名さんに会ったことがあるんだよ。イベントで八丈島に行って、台風で取り残されて。でも椎名さんには近づけなくて。
いつか絶対デザイナーとして椎名さんに会いたいって思ってたから、いちファンとしては会いたくないってのがあったんだよね。と言いつつイベントに参加してるわけなんだが。
――――その気持ち、わかる気がします。
宮川:仕事で椎名さんと打ち合わせをすることになって。指定の居酒屋があるんだよ、新宿の「池林房」って店で。時間が決まってて、終わると後ろで次の人が待ってるんだ。
第二の事務所みたいな感じ。椎名さんはそこにいて、打ち合わせの相手がどんどん入れ替わるんだよね。
――――椎名さんの本は何冊担当されたんですか?
宮川:それ1冊で終わるかと思ったらシリーズ化されて。写真集も合わせて、全部で10冊かな、今のところ。
「おなかがすいたハラペコだ。」(新日本出版社 ・2015年)
――――この本は「実践装画塾名古屋」の課題にもなりました。以下はわたしの作品。椎名さんファンにはおなじみの「マンガ盛くん」という登場人物をモデルにしたキャラクター『ハラペコマン』をメインに。
「実践装画塾名古屋」の課題作品(2018年)
装丁:宮川和夫 イラスト・キャラクターデザイン:陽菜ひよ子
――――宮川先生、椎名さんに『ハラペコマン』を売り込んでくださったんですよね。どうでしたか?
宮川:ああ、特に何も。。。
――――・・・・・
覚悟をすると風が吹いてくる
――――話は前後しますが、大学を卒業してから独立するまではどうされてたんですか?
宮川:教授の推せんで就職して、大手塗料メーカーで色彩設計をやってたんだけど、1年半で辞めちゃって。それが1985年で、25歳でデザイン会社に勤めてグラフィックデザインに進んだんだよ。
――――1985年、バブル前夜ですね。
宮川:そうそう、完全に浮かれてたね。会社がどんどん大きくなって行って、大きなお金が動いていくんだよ。
1996年に36歳で独立したんだけど、ひどい話で。一緒にやろうと思ってたやつが、条件のいい話が来て就職しちゃって。結局1人でやることになったんだよ。
――――大変でしたねぇ。もうバブルは弾けてましたし。。。ご結婚はされてたんですか?
宮川:ちょうど2人目が生まれたところだったんだよ。よくやったよね。
――――前の会社から仕事を引っ張ってきたりとかは?
宮川:それをやりたくなかったんだよね。だからひたすら営業の日々で。
――――それはすごい。不安はなかったですか?
宮川:それが全然こわくなかったんだよ。
カスみたいな仕事もしたし、売り込みの約束をすっぽかされたりもしたしね。それでも楽しかった。
最初は、写植版下屋に机を置かせてもらって仕事を始めたんだけど、写植版下という仕事が一気になくなる時代で、その会社もなくなって、赤坂8丁目に事務所を借りることにした。
――――おお!赤坂に事務所!大きく出ましたね。ご自宅で、とは考えないんですね。
宮川:思い切って覚悟を決めると、風が吹いてくるんだよ。経費とか切り詰めすぎて、小さく縮こまってちゃダメなんだな。
クリエイティブは生き様そのもの
――――装丁のお仕事で代表的な作品というと?
宮川:一番売れた本は「終わった人」(内館牧子・2015年・講談社)だね。48万部売れて映画化もされて。
次も来るかなーと思ってたら来なくて。その後同じ路線の小説が2冊出てるけど、全部デザイナーが違うんだよ。
普通は売れたらまた同じ人で行こうって思いそうなもんじゃない。でもそうじゃないんだよね。大先輩の装丁家坂川栄治さんが言っていたんだけれど、100万部のベストセラーが出ると、もうその会社からは仕事が来なくなるって。
――――ひゃー!意外ですね。
宮川:売れなければ売れないで、結局仕事は来ないんだけどさ。
――――売れてもダメ、売れなくてもダメだとしたら、どうすればいいんでしょう。
宮川:イラストもデザインも、流行や時代性ってのはあるからね。それは大事。その上でのオリジナリティだよね。
――――そういえば、何かで今の流行のイラストはこの人!って名指しで書かれてたイラストレーターを見ました。それってうれしいけど、何年かしたら飽きられるのかな、とも思ったり。
宮川:その通りだよ。そもそも、イラストの評価をするのは難しいことで。
イラストに限らず、デザインも写真も、すべてのクリエイティブは「あなたはどうやって生きて来たか」という問いに対する答えであり、プレゼンテーションなんだよね。
「ここはこうした方がいいよ」って言ったところで、今までどう生きて来たかってことなんだから、変われない。だから否定はできないんだよ。
クリエイティブを否定することは、その人の生きている価値を否定することになってしまうんだから。
熱意は人を動かす
――――今までで、一番うれしかったお仕事は?
宮川:それはやっぱり椎名さんだよね。写真集を出して35周年ということで、今までの椎名さんの写真集からセレクトして再編集した写真集が出ることになったんだよ。
もうオレはこの本のために今までの椎名さんの写真集、全部買ったからね。出版社の社長も驚いてたよ。椎名さんじゃなきゃ、そこまでやれないよね。
「こんな写真を撮ってきた」(新日本出版社・2021年)
――――ファンであればこそ、ですね。
宮川:打ち合わせで椎名さんに作った資料見せながら説明したら、椎名さんが「すごいなぁ、ボクより知ってるよ」って言ってくれたんだよ。
本文中にオレのこと、書いてくれて。
「こんな写真を撮ってきた」本文より
――――それはうれしすぎる!泣けますよね。
宮川:やっぱり熱意は人を動かすよね。本が完成したら、なんと直接電話がかかって来たんだよ。
「ありがとう。今までの写真集で一番いい本です。今度ビールでも飲みましょう」
その電話、外でとったんだけど、腰が抜けたね。
椎名さんの奥さんの写真集の装丁も担当。
全幅の信頼を寄せられておりますね。素敵。(ひ)
過去の自分に教えてやりたい
――――宮川先生といえば、Facebookでの華麗な交友関係。誰もが知るマンガ家の皆さんとの交流のきっかけは?
宮川:最初は細川貂々さんと、ある絵本作家を通じて知り合ったのがきっかけだね。貂々さんの作品の装丁を担当して、仕事の相談を受けるようになって。
「ツレがウツになりまして」(幻冬舎・2006年)
もはや説明不要の大ヒットシリーズ。(ひ)
「ていでん☆ちゅういほう」 (文研出版・2014年)
文:いとう みく イラスト:細川 貂々
宮川先生が装丁を担当した本
貂々さんは萩岩睦美さんのファンで、Facebookで萩岩さんと繋がっていて、オレもそこにコメントしたら返事があり、繋がったんだよ。
「銀曜日のおとぎ話」(集英社・1983年)
りぼんでリアルタイムで読んでましたよ!!(大コーフン)(ひ)
萩岩さんの初個展に伺ったら、くらもちふさこさんを紹介されて。くらもちふさこさんは、武蔵美出身なんだよ。
「いつもポケットにショパン」(集英社・1980年)
マーガレット女子には想い出深い珠玉の名作。
セリフを空で言えるもんね。「麻子はシチューが得意です」とか。
「おしゃべり階段」(1978年)もよかったなぁ。(ひ)
萩岩さんの繋がりで、陸奥A子さんも紹介されて、Facebookで繋がったんだよね。陸奥さんからは装丁について、いろいろ相談を受けたりしてね。
ふしぎの国のアリス(ファンタジーメルヘン・6)(集英社・1983年)
これ、昔もってたのよ。今、すごい値段ついてて驚き。(ひ)
――――(途中、あまりのビッグネーム続きに、おお!としか言えなくなる)すごい。りぼんとマーガレットのスターばっかり。それにしても、Facebookってそういうところなんだ。。。
宮川:「りぼん男子」としては夢のような出来事だよね。
――――「りぼん男子」としても「椎名誠ファン」としても、夢のようですよね。イラストや写真も含め、我々の仕事って「いつかこの人と仕事したい」「この人に会いたい」って思う事って当然ありますが、こんなにかなえた人は珍しいのでは・・・
宮川:昔の自分に教えてやりたいね。
今後の仕事、デザインについて
――――今後力を入れていきたいお仕事の分野ってありますか?
宮川:割となんでもやって来たんだけどね、文芸からビジネス、絵本まで。でも自分では人文が一番好きかな。哲学や心理学などの分野だね。
「私たちはふつうに老いることができない:高齢化する障害者家族」
(大月書店・2020年)児玉真美・著 宮川和夫・装丁
――――おお!仲のいい某書店の人文担当の書店員さんが「棚はオレの作品」って感じでつくり込んでらっしゃるんです。そこに行くと宮川先生の作品がズラッと並んでるんですね。
宮川:まぁでも、棚差しになってるとオレの本ってわからないよね。
――――確かに。イラストならカバーを見ればわかるけど、デザインはわからないか・・・
宮川:だんだんと、カバー見ただけで誰のデザインかわかるようになってくるんだけどね。
――――そこまでわかるようになったらすごいですよね。
宮川:もちろん、いつもと違ったりしてわからないときもあるけどね。
「ぼくの鳥あげる」(幻戯書房・2019年)
佐野洋子・著 広瀬弦・絵 風木一人・編集 宮川和夫・装丁
お世話になってる絵本作家の風木一人さん(やはり風木先生とお呼びしてる)が編集担当で、宮川先生が装丁と来れば、買うしかないでしょ。
という事で我が家にあります。文芸書ですが、この装丁すごく気に入っていて、見せ本棚(デザインの素敵な本を飾る棚)に並べてあります。(ひ)
デザインとイラストに関する誤解について
――――ところで「デザインとイラストに関する誤解」について、わたしは自分のnoteによく書いています。世間的にすごく誤解されているなと。混同されることも多いです。
宮川:そうなんだよね。
――――わたしもたまに「デザインも込みでお願いしたい」という依頼を受けて「できません」って言うと「センスいいから大丈夫です」って言われるんです。
「いや、デザインってセンスとか感性でやっていいものじゃなくて、ちゃんと理論をわかってやんないとダメなんですよ」と説明して、疲れてしまう。。。
宮川:もちろん、センスも大事だけどね。理論の上でのセンスや感性だよね。
――――ですよね。結局押し切られて、デザインもやったことあるんですけど。なまじ周りに錚々たるデザイナーさんがいるだけに恐ろしくて。「これ、プロのデザイナーさんが見たらどう思うんだろう」って。
宮川:不快だよね。
――――やっぱりそうですよね。不快とは、具体的にはどんな感じなんでしょうか?
宮川:たいてい色を使いすぎてたり「いつの時代だよ」って感じのだったりするよ。あるべきものがあるべきところになくて、気持ち悪いし。
――――「気持ち悪い」というのは、例えていうなら「絶対音感のある人が、音階のズレた音楽を聴くみたいな感じ」ですかね?
宮川:そうそう、そんな感じだね。
デザイン・イラストレーションの今後
宮川:クリエイティブも、どんどん変化してるよね。デザインも、今の若い人のものを見ると、時代を感じるし。
――――ブックデザインにも流行りってあるんですね。
宮川:あるある。文字の使い方、例えばフォントや字の大きさ、字間、ならびや帯のデザインひとつでも違うんだよ。
――――ファッションでいえば、エリの幅やそでの長さなんかが流行で違ったりする感覚ですか?
宮川:そういうこともあるし、文字組みがね。
イラストレーションの世界も変化してるよね。流行だけでなくて、今までとは価値観や、発表の場が変わってきている。
既存のステイタスに魅力を感じない価値観を持つ人が増えてきているし。発表する場も、書籍や広告だけじゃなくて、プライべートでファンがつくことで、すごく狭い世界だけで成立するようになってるよね。
おわりに
宮川先生のお話を伺って感じたこと。宮川先生の「絶対に椎名さんと一緒に仕事をする」という執念がスゴイし、願い続けて本気で活動すれば(→ここ大事。願い続けるだけじゃダメ)、かなうこともあるんですね。
デザイナーという仕事の持つ「チカラ」と執念の持つ「チカラ」、そのどちらにも希望を感じたお話です。仕事で活躍すれば、憧れのヒトとも交流できるかもしれないのだとすれば、もっと自分も頑張ろうと思えますよね。
さて、このインタビューは裏テーマとして「遅咲きの人」に焦点を当てております。
今回の宮川先生は、装丁家としての独立は36歳ですが、大学でデザインを学び25歳からグラフィックデザインを始められているので、そこには当たらないかな?と感じますが。。。
実は宮川先生、めちゃくちゃ文章が面白いんです。
文中にもたびたび登場したFacebookに宮川先生が載せている日記(というよりもはやエッセイ)は大人気。
「先生、note書きませんか?」
とお誘いしておいたので、いずれこのnoteでもお目見えする日が来るでしょう、きっと??
宮川先生、楽しいお話をありがとうございました!
◎宮川先生の最近の装丁。どの本も大人気!
おまけ:装画塾名古屋の記録・ひよ子編
気づけば、3時間が経っていました。
夢中でお話を伺ったり、自分も思いつくまましゃべったりしていたら、時間が過ぎるのは矢のように、いやハラペコマンの飛行のように早く。
気づけば、わたしはインタビュアーというより、ちょうど4年前の2017年秋に戻って、いち受講生として、先生に教えを乞うような気持になっていました。そして先生についつい自己アピールしてしまうダメな生徒に戻り。
1万字超えのこの長文をお読みくださった方へのおまけとして、装画塾で私が学んだ記録を載せます。このダメっぷりを見れば、勇気が湧いてくるのではないかと思います。
左 / 文中に登場する風木先生(左)と宮川先生とわたし
右 / 課題作・帯付
(『実践装画塾NAGOYA修了展』Gallery DAZZLE・2018年3月)
写真撮影:宮田雄平
実践装画塾名古屋の様子(2017年9月)
写真撮影:宮田雄平
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