市民シンポジウム「子どもの生きづらさを考える」
2年前の3月19日北翔大学ポルトで開かれたシンポジウムに参加してきました。
「子どもの生きづらさを考える」について
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北翔大学教育文化学部心理カウンセリング学科 飯田教授
こころとそだちのクリニック むすびめ 田中康雄先生
しんぐるまざあず・ふぉーらむ北海道 平井照枝さん
NPO法人 訪問と居場所 漂流教室 山田大樹さん
からお話を聴くことが出来ました。
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市民講座だったので、当事者の方や、発達や不登校などに悩まれている保護者の方の参加も目立ちました。内容盛りだくさんでしたが、個人的に感じたことをまとめてみました。
生きづらさとはなにか・・・
「社会とズレ」
「社会モデルの変化」
「生活しづらい、難しいと感じること(生活障害)」
「孤独感」
「格差・貧困・生活困窮」
「余裕が無い」など
様々な視点から「生きる」を考えるとこんなにたくさんの生きづらさに気付きます。それは発達障害児を抱える保護者もそうですが、シングルマザーも精神疾患の方も経済的に裕福な方も、みんなそれぞれ質や形態は違えど、「生きづらさ」を感じている人が多くいます。
大人が感じていると言うことは、それを視ている子どもたちも感じているのではないでしょうか。
学校という社会で感じる生きづらさ
「学校」という場所の中で過ごさなければならない、休んではいけない、と何かに縛られたように生きていると息苦しさを感じますよね。
一般の会社のように有給休暇があるわけでもなく子どもたちは一律のペースで勉強に励みます。お勉強が好きな子やお友だちがいて遊べる子は行っても楽しいでしょう。
しかし、そうでない子ももちろんいます。
そうなった場合、その子が変わるべきなのでしょうか?
それとも学校が変わるべきなのでしょうか?
それともどちらも?
言ったもん勝ちの世の中
「この子は変わった子だ!」と言った人がいると、その周りの人は指を差された「この子」を見ます。しかし、その言葉を言った人のことまで きちんと見ているでしょうか?もしかしたら言った人の方が変わっているかもしれないのに・・・
待てよ、変わってるってなんだ?
誰の価値観でそう思うんだ?
最近は子どもの発達障害については「多くなった」と言われます。では、それを言っている大人については考えたことがあるでしょうか?
所属が個性になってない?
学校の先生もそうだと思いますが、支援者として私たち職員も「正しい人でなければならない」という風潮が強くみられます。警察も、総理大臣も、子どもも、親も、私たちもみーんな人間です。
職業や所属している場所は後から付いてくるもの。そのようなものに縛られていると本当に生きづらさを感じますね。子どもは子どもらしくしておけ!ということも同様です。
どこに所属しようともやってはいけないことはもちろん、あります。
でも、子育てが大変!と声に出して言ってもいいのです。
あーイライラするー!と言っていいんです。
難しい!やめたい!助けて!と言って良いんです。
ここでやってはいけないことはそれを本人(子ども)にぶつけることです。
何事にもプロになろうとすると辛さを感じる環境を作ります。弱さを見せる人のほうがよっぽど生きづらさを感じないと思います。学校や保育の先生で子どもにナメられないように!と奮闘する方が多くいますが、たいてい頑張りどころを間違えて子どもたちがついて行けていません。それはプロではありません。本物のプロは手の抜きどころを知ってるんですよね。
今現在所属している場所だけが全てではありません。
他に目を向ける。
色んな価値観に触れる。
そんな小さなことで助かることもあると思います。
子育てや療育で大事なのは知識よりも余裕です。
もっとみなさん、自分でがんばった分、人に頼りましょう。人に頼られたら、少し手伝ってみましょう。
本当の生き辛さは、孤独から生まれているのかもしれません。他社のせいじゃなく孤独のせい!たいていのことはマンパワーでどうにかなるのかもしれません。
そんなシンポジウムでした。
現在はコロナ禍で人に疲れるくせに、人に癒しを求める矛盾を抱く大人と子ども。余裕がない時こそ、孤独にならず人を求めてみると案外相手も喜んでいたりするかもしれません。
生活様式を変えるのも大切ですが、人との関わりも少し見方を変えて考え直すきっかけになっているかもしれませんね。