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涙目の女

明日から旅行、ということで現金を調達しに銀行に向かった。

この時間帯はすでに受付はしまっていて、ATMだけの利用が可能となる。

必要なのはお金だけなので、それで全く問題はない。

銀行についた。

さあ、と扉を押そうとした時、

前方に赤いドレスを着た女の人の姿が見えた。

彼女は重いガラス扉の奥で、ひもに通した鍵をゆらゆらさせながら

それを見つめてぼーっとしていた。

『今日だけは、だめかもしれない』と思った。

実はその女の人を見るのは今回が初めてではなくて

2、3回目なのだけれど、今日はなぜか怖くなってしまい。

前はラジカセでクラシックを流しながら、口紅でウインドウに
なにやら文を書きなぐっていた。

ガラスに塗りたくられた口紅を見るのはこれで2回目だ。

(小学生のとき、誰かの車のフロントガラスいっぱいに赤いルージュで

意味はわからないけれど、とにかくたくさんの文字が書かれているのを見た。

お母さんは『失恋したのね』と言った。)

その時彼女はウインドウの赤い文字だけに集中していたので、私も自分の引き落としのみに専念できたのだ。

でも今回は違う。

多分、今ドアを押し開けて進んで行くと、彼女とは正面対決、

今までで一番のガチンコ接近戦となるだろう。

ベルリンではいろんなラリってる人たちを見てきたので、

慣れているつもりだったが、私もまだまだ鍛錬が足りないようだ。

『違うとこ行くか…』と思って引き返そうとしたけれど、

明日の朝にはきっと銀行に行く時間も余裕もないだろうし、

こっから一番近い銀行も歩いて15分以上はかかる。

めんどくさい….

でもなんだか今日は本当に入って行く気がしない。

下手すると、ガチムキマッチョの男がATMの前にいるより怖いな。

他の人が来るまで待つか…

と銀行の中をのぞいたら、もうすでに誰かがATMの前に立っていた。

あ、なら!と私も入っていこうとする。

するとお金をおろし終えた男の人が、私とすれ違いで出てこようとした。

そこで赤いドレスの女の人は彼のためにドアを開けてあげる。

ベルリンでよく見る光景だけど、銀行の前にホームレスの人とかが立っていて

客が来ると彼らのためにドアを開けてくれるのだ。

皆『ありがとう』とか言いながら入って行き、出るときにチップをあげたりする。

ヒトの財布の紐が最も緩む瞬間をうまく利用した、上級者テクだ。

きっとこの彼女もそれなんだけど、あの不気味さできっと客を減らしている

と思う。実際私は立ち去ろうとしたし。

ドアを開けてもらった男の人は、礼を述べながらチャリーンと

彼女が持っていた紙コップに数枚の小銭を落とした。

そのときだ、

普段は涙で潤んでどこにも焦点が合わない彼女の目、
(目玉にモザイクがかかっているみたいな感じ、これはなんとも言えない、本物をみて欲しい)

一瞬、涙のもやから青い瞳がニュルンっと出てきたと思うと

とっても優しく、甘くとろけるように

『Danke schön(ありがとう)』と少しお辞儀さえしながら言った。

男の人はふっと笑って、そのまま去って行った。

それから彼女はまたあの猫の目やにでいっぱいみたいな目に戻って振り返り、

私のためにドアを開けてくれた。

プスプスプスプス言いながら、私を見つめて『ハロー』と言った。

あのとき確かにいっとき人間になった彼女の姿が忘れられず、

そしてなぜか逆に彼女に親しみを感じてしまい、私はすっかり安心してしまった。むしろちょっと好きになってしまっていたと思う。

わからない、これはペッパーくんに人間味を感じて
彼を愛らしく思ってしまうようなちょっと人間第一主義的な考えかもしれない。

ちら、とATMの向こうを見やると

彼女はいつものように大音量でクラシックを流しながら

ずっとプスプスプスプスプスプスプスプスプス言っていた。

また

『ちょっとむりぃ』となりかける。

でも一点を見つめて佇んでいるだけで、何をしてくるわけでもない。

なんだか銀行にいつく妖精かなにかのような気もしてきた。

(子供の頃思い描いていた妖精とは全く違うものだけど)

お金をおろし終え、出口に向かう。

彼女はやっぱりドアを開けてくれる。

通り過ぎる前に、私は彼女に70セントを手渡した。

私は今まで全くお金をあげたりするようなことはしてこなかったので、
(ストリートミュージシャンとかは除く)今回が初めてだ。

純粋に感謝の気持ちから、とかではなくて

お祓い、みたいな気持ちだったかも。

70セントあげるので、どうか私のこと呪わないでください。


彼女は口紅がはみ出た真っ赤な口でにっこり笑いながら

『Vielen Dank(ホントにありがと)』と言った。

少女みたいな声で、とびきり優雅に。

早足でプスプスプス、あの女の人の真似をしながら帰った。

あ、お祓いとか言ってお金入れたけどさ、

あそこの銀行いたら稼げるなって味しめちゃったら

きっとずっといつくことになるよな、とはたと気づいた。

でも、まあいいか。

多分これから私は彼女がどんなことして扉の奥で待ってても

ハローっていってニコってして70セント渡すと思う。

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