52卑弥呼ファン集まれ―!!「卑弥呼・アジスキ」説!!全体ビュー4104up!!
「卑弥呼・阿遅須伎高日子根命神」説、「臺興・天豊津媛命」説!! 卑弥呼ファン集まれ!! 「卑弥呼」はここだー!! 〇卑弥呼の父(埴岡寂諦) sakurako_saku・・・・、 左横〇をクリックすると全体表示となります。次に写真をクリックで全文表示。
なぜ「卑弥呼・アジスキ」という「変な名前なのに」これだけの人気があるのかー? なぜ「卑弥呼・アジスキ」が、神となれたのかー?
「阿遅須伎高日子尼命神」は、農業の神だとは言われていますが、何故・どんな理由でとなると納得のいく答えはあまりないのですよねー。 こんな古代の話からすると「アジスキ」例「アジ」美味しいとは、「稗や粟・橡・粟・栗」等を食していた者が、お米・美味しい。となるのですよねー。
「ジキ」は食べる、例は悪いですが「乞食」「ジキ」、食べ物という意味となるのですよねー。①点は、渡航経験があったのかー?(どうして籾を手に入れられたのか?)。「阿遅須伎高日子尼命神」が、急にそんな「美味しい食べ物」のことをどうして知ったのか❓❓
そしてもう①点は、土地の「開墾」という発想ができるのか? と言う難問が控えているのですよねー。お米を作るのには「水田」がいる。 「田原」の地名、読んで字のごとく「田」の元「原」、「水田」、土地の「水田」への開墾がいるのですよねー。では開墾にはどんな道具がいるのか?「木」や「石」では、原野は掘り起こせませんよねー。そうです。「鉄」がいるのです。「鉄」は「賀」と表現されています。 道具(鉄器・鋤・鍬)この二点が説明できないと何も始まらないのですよー。 「鉄」の部分から入りましょうかねー。
「播磨風土記」「託賀郡」これは読んで字のごとく、「鉄」の多い所と読まなければならないでしょうねー。「鉄」と言えば「妖怪」「天一目箇命神」この記述が「播磨風土記」の「託賀郡」の条に出てくるのですよねー。そのころ「水田」はないと言ういうこととなると、「邑日野」は「託賀郡」も含んでいたと考えなければならないのですよねー。(多可町にも「日野小学校」がある。)現在住んでいる土地の形状で物事を考えるとまったくダメとなるのです。だって、「水田」だってない頃の話をしているんだものー。「播磨風土記」の「託賀郡」の条の話に行きましょう。「託賀郡」の条の原文は難しくて読み切れませんが、鉄を取りつくした。と言うようなことが書いてありますよねー。 「卑弥呼」が死んだ。だから事代主の記述からは、磯城・葛城に多く出てくるのでしょうねー。「阿遅須伎高日子尼命神」の記述は、幼少期は「出雲」で以後あまり書かれてないのです。唯一「播磨風土記」「阿遅須伎高日子尼命神」「日本書記」のみとなるのですよねー。「鉄」すなわち、武具・農具の発展が、歴史の「大きな変革点」となっているのです。
三国史記(新羅本紀) 173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」) 卑弥呼が、使いとして訪れた。247年までに74年、20歳として94歳死亡?? 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大
栽培史
人類は、旧石器時代には狩猟を中心とした移動性の生活をしながら、野生の植物を採集して食糧としていた。しかし、いまから1万年前ごろになると、ある程度定住した生活をするようになり、まもなく植物を栽培することを覚えた。まず、前栽培的な段階として、野生の植物の採集について縄張り(テリトリー)のようなものが生じ、それを守るとともに植物の生育をもある程度保護するようになったと考えられる。そして野生の植物の種や果実、いもなどを採集したり、縄張り内の植物を監視している間に、植物の生育に関する知識が徐々に蓄積され、また、食べ残したいもや捨てた種子などが芽を出し、やがて新たに植物体として生育することに気づいたことなどが、本格的な栽培の契機となったのであろう。
植物を栽培することにより、採集時代に比べてより多くの収穫物をより安定して得られるようになった。また、栽培技術が進歩し、作物の種類や収量が増え、定住性をより強めるとともに、多数の人が1か所に集まって生活することを可能とした。また、栽培から収穫、調理のための道具が発達し、栽培に影響を与える気象に関する知識が養われ、さらに占いや宗教の誕生を導き、それらがやがて農耕文明へと発達する基盤となった。
栽培の方法は、文明が発達するとともに進歩し、人力から畜力、そして動力機械の導入へと変化し、さらには肥料、農薬を用いる化学的な方法も取り入れられるに至った。もっとも原始的な栽培法は、やぶや林に火を入れ草木を焼き払って作物を植え付ける焼畑農法である。集積された有機質や灰が肥料となって初期の生産性は高いが、数年間で土地がやせてくる。生産力が減退するとその耕地を放置して、ほかの土地に移ってふたたび火入れをして作物を栽培する。農具も簡単な棒だけのことが多い。このような方法では、1人当りの生活のための土地はかなりの広さが必要である。進歩した栽培方式は穀草式とよばれる。畜産のための草地の中で一部分を穀物畑として利用し、生産性が落ちると畑を他区域に移す方式である。これをさらに有効な土地利用形態とするために、ヨーロッパでは三圃(さんぽ)式農業が発達した。これは穀物を栽培する耕地を草地から独立させたもので、その耕地を三分して、それぞれ順に、初年に秋播(ま)きのムギ、2年目には春播きのムギを播き、3年目には休耕して土地を休める体系をとり、全耕地の3分の2で穀物を栽培し、3分の1を休めておく方式である。時代が下ると、休閑期間中にクローバーなどを植えて地力を培養するようになり、さらに改良されて飼料作物の栽培を取り込んだ作付け体系となった。
一方、日本をはじめとするアジアの稲作農業地域では、水田栽培が発達した。原始的な水田は耕地をあぜで囲って水をためるだけの構造であった。また、湿地帯などでは、小さく囲ってはそこを開墾して水田として増やしていったらしい。やがて水路などの灌漑(かんがい)施設が発達し、用水を積極的に調節する大規模な土木工事を伴うようになった。
植物の繁殖と生育とを保護、管理すること。植物は人間の生活の衣食住全般にわたって欠かすことのできない存在であり、植物を栽培する目的も多様である。食用はもとより、繊維やデンプン、油、薬、染料、香料、木材などの原料をとるために、また、家畜の餌(えさ)や耕地の緑肥とするために栽培される。花や葉、樹木などを観賞し、精神的安らぎを得る目的でも栽培され、さらには風を遮る目的や、斜面などの土砂流出を防ぐ目的、山地で水資源を確保する目的などでも植物は栽培される。
コトバンク[星川清親]より