”きょうだい”の恋愛と結婚
最近は、きょうだい映画『ふたり〜あなたという光〜』のプロデューサーとしても名が知れてきたところで、映画のテーマは「”きょうだい”の結婚」であり、私自身のストーリーを題材に作られているわりには、私は案外、このテーマで何かを綴ったことがなかった、と思った。
”きょうだい”といえども、恋愛事情は様々であり、こればかりは、人と人との出逢いと相性であり、それは”きょうだい”だからとの因果関係があるとも思えないこともたくさんある。
ただ、こうして、映画が撮影された背景にあるように、恋愛で苦労しながらも、結婚して10年ほど経過する今だからこそ、自分自身の”恋愛”をテーマにした文章も書けるような気がしてきた。ちょろっと、今の旦那との出会いからの馴れ初めや結婚に至るまでの経緯、映画とは違うところを書くはずが、なんだか長い文章になりそうで、誰が一体、こんなもの読むんだろうか、と甚だ疑問が湧くが、自分自身の解像度をあげる目的で綴ってみようと思う。
”きょうだい”だって恋がしたい
AbemaTVでの”きょうだい”特集で、きょうだいである男性が婚約者の女性の母親に「遺伝するかもしれないから」という理由で結婚が破談になったことが放映されていて、それに対して「あれは一部のことでしかない」という意見もあれば、「自分の時代はもっと偏見が強く、”きょうだい”であれば結婚できないのは当然だ」という意見やら「他人を自分の境遇に巻き込めないと思った。覚悟がなかった」という声やら、プロデュースした映画にもこの辺を描いているので、様々届いているのだが、
結婚がどうなるかはさておき、”きょうだい”が恋さえしてはいけないなんて悲しい話はないはずだ。あまり語ってはこなかったが、三間の持論として、恋愛は人を大きく成長させると思っている。だがしかし、”きょうだい”であることが、人との関係を深くすることに壁があるのかもしれない、というのはあると思っている。
そもそも、恋愛に限らず、人間関係において、「自分は1人で頑張るしかない」という世界(思い込み)で長年生きているわけなのだ。だからこそ、肩肘はって強がって生きているところを、それは表面だけで、実は臆病で繊細で傷つきやすいものを持っているという、扱いに困る、ちょっとメンヘラ気味な”きょうだい”たる片鱗を見透かして近寄ってくる物好きな男としか関わりあえないのである(あくまでみま個人の見解である。全てのきょうだいにおいてそうだとは言わない)
共依存気味な恋愛事情
強がっているけれど、常に心が孤独で、甘えたくても甘えられず、1人で生きてきた”きょうだい”らしい性質を持っていた私は、多分、今、振り返ると、結構な、恋愛依存症だったかも知れない、とも思うのだ。
20代で、最初にまともに付き合った彼とは、まさに共依存だった。その当時は、共依存だったとかの自覚はなかった。ただただ、恋愛とはこんなもんだろうと思っていたが、大学3年から社会人1年目まで、3年半ほど、私の人生は、常に彼とセットで存在していた。彼を仮にAとしよう。
居酒屋のバイト先の常連で、同い年だけどすでに働いていて社会人だったAに、同級生より大人さを感じたのか、付き合うと同時にべったりと常に一緒に過ごすようになっていた。
私のコミュニティには、必ずAがいて、Aのコミュニティには、私がいた。そうやって、互いの人間関係も趣味も何もかもを「シェア/共有」していた。私が大学のゼミ仲間と飲むといえば、Aは付いてきたし、Aがバイク仲間と飲むといえば、私が付いて行った。それでなくとも私の暮らしに転がり込んできて半同棲だったから、大学の授業以外、彼が仕事中以外は、本当に、全てを共に過ごしていた。
私には、それが、その時までの人生で初めて味わう、1人の人から「徹底的に愛を注いでもらえる時間」であり、今思えば、私の「愛への渇望」「愛への飢え」がそれを引き起こしていたとわかる。
親の時間や愛情は、どうしても、障がいのある兄弟姉妹に注がれてきた”きょうだい”には、もしかすると”あるある”なのかも知れない。(このことをきょうだいたちと語ったことはないのであくまで憶測だが)
あの時の私には、Aという存在が必要で必然で、10代までの「愛して欲しい」と言いたくても言えなかった私に、目に入れても痛くないというぐらいに徹底的に愛を注いでくれる存在だった。
だからこそ、Aといた3年半は、「自分」というものはなくなっていて、「自分」とAという存在の境界線が曖昧になるほどに、「自分とA」で一つであり、どこのカフェやバーや居酒屋に行っても、基本的には2人はセットで動いている共同体だと思われていたに違いない。
彼がいない時間も場所も考えられなかったし、彼がいることは当たり前だった。多少、彼の言動に違和感を感じたとしても、少しも問題ではなかった。なぜなら、私を愛してくれている、と感じさせてくれる、人生で初めて出会った、絶対的に自分を受け入れてくれる人だったからだ。そう、多くの人は、本来は、この絶対的な愛をくれるのは「親」であろうが、私にとっては、それがAだった。
突然の破局
とにかくどこに行くにも何をするのも一緒でべったりと過ごしていた蜜月な月日は、ある日突然終わりを迎えた。
・・・いつか終わらせなくてはならない。
この直感は絶えず付き纏っていた。それは、私が”きょうだい”で、結婚をするには障害ある妹を受け入れてもらわなくてはならないから、とかそういうことではなかった。
どんなにそれほどにべったりと一緒にいても、私はAとの結婚は考えられなかった。
「このまま2人でい続けたら、2人してダメになってしまう」
ということがわかっていたから。私たちは互いの存在しか目に入らなかったし、相手さえいればいい、それ以外何もいらない、みたいな本当に耄碌した間柄だったので、
相手がどう生きているかとか、どんな生き甲斐を持って生きているか、とかあんまりどうでもよかったから。相手の悪いところをちゃんと叱ったり、指摘し合ったり互いを成長させられるような大人な関係にはなれかった。
いつか別れる時が来るのだ、とわかっていたのに、共依存な関係だった私たちは、互いに離れられなかった。
何があっても愛を注いでくれる存在を、私はそばに置いておきたかったのだ。
彼の名誉のためにも詳細は伏せておくが、離れられずにいた私に、神がお怒りになったのか、驚くような「別れねばならぬ理由」を差し出してきた。私も流石に観念して、これは別れるしか選択肢はないな、と冷静に判断した。
あれだけずっと一緒にいたAとは、新宿三丁目の居酒屋で、あっさりと、終わった。
・・・しばらくは、別れたことの方が夢だったのではないか、と思うくらいに、朝起きてはいつも通りAがそばにいるような気がしていた。
共依存関係の相手との関係が突然終わったのだ。依存先がなくなる、ということの恐怖体験は壮絶だった。
アルコール依存症の人がアルコールを断てないように、タバコがなかなかやめられえないように・・・なのに突然、依存先を引き剥がされたのだから、まるで人生の半分が終わりを迎えてしまったような、何か自分というものをどこかに置いてきてしまったようで、いつも心ここにあらずだった。気がつくと、Aがいた日々(過去)の中に自分がいて、「あれ、私は今どこにいるんだっけ」と現実を受け入れるのに時間がかかった。
今ここ、現在に生きようにも、私の人生の居場所には、いつもいつもAがいたから、「あれ?今日は1人?珍しいね!Aはどうしたの?」と聞かれる。
・・・別れた、と言えば、事情を話さなければならなくなるし、それが嫌で、私はどこにも出掛けられなくなった。
またしても私は大切な人を失った
この体験もまた、私のトラウマを刺激した。
ただでさえ、妹が統合失調症の発症をしたときに、何もできなかった自分への呪いがあり、笑いかけてくれる天真爛漫なあの子はもう、どこにもいないんだ、という、
「大切な人はいなくなる」
という恐怖感を、私は改めて、強烈な形で味わっていた。もしかすると、15歳の体験の時よりも、私は生々しくこの失恋劇を体験してしまっていて、強烈な欠乏感を味わい、しばらくもぬけの殻だった。
「失恋の辛さ」と書くと、何かとても軽くも感じるが、これほどに感情が掻き毟られるのかというほどに、心を消耗した。人生で、後にも先にも、パニック障害と同じくらいに、消耗していた。よしもとばななの「はごろも」という小説に癒され、まだ夏休み前の6月だというのに、突然、休暇をとって、サイパンに旅行して、自然を見つめながら、ようやく、魂が抜けた状態から人間に戻った。
2ヶ月以上経ったある日、ようやくAと別れたことを母親に告げた時、
「そうだと思った。目がずっとおかしかった」
と言われた時、異変に気づいていながらも、私が話せるようになるまで、何も聞かないでいてくれたのだな、と思うと有り難かった。
もう恋なんてしないなんて言わないよ、絶対。
それだけ共依存の恋愛だった訳で、もうしばらく彼氏なんていらい・・・!ということにもならないのが、私だったw
一度、恋愛で共依存関係を作っていた私は、まぁまぁ、恋愛体質というか、恋愛依存症気味だった気がする。半年くらいはAを引きずっていた訳だが、なんのことやらあっさりと、別れて半年後には、ひとまわり年上の彼氏ができた。どうにも惚れっぽくなっていたらしい笑。それに、根本的に「愛」に飢えているから、常にサーチしながら生きていたと思う。
今度はどこまでも愛をくれない男
ひとまわり年上だったこともあり、大人で経験値が高くて、私よりたくさんの知識があって、それにサラリーマンじゃなくて、フリーランスで稼いでいて、なんだかカッコよく見えたんだけれども、結構、もう自分の生き方は曲げられない頑固さのある男(仮にBとしよう)だった。愛していない訳ではないのだろうけれども、Aとは違って愛を徹底的に注ぐような男ではなかった。
むしろ、私がもっともっとと愛をねだろうと近づけば近づくほど、心が離れていくやつだった。”きょうだい”とか、妹がどうとか、私の身の上話にも、そもそもあまり興味がなさそうだった。
その後、私にとって決定的に受け入れられないことが起きた。
私が弱っているのがわかっている病気の時に、ただただ”お前は何も悪くない”と言って欲しかっただけなのに、茶化されて、”お前のせいだ”、と罵倒された時に、「この人とは無理だ」と悟った。
妹が統合失調症になってしまったのは、もしかしたら私が何もしてられなかったせい、、、という罪悪感をようやく手放しかけていたこの頃に、「お前は何も悪くない」という言葉を言えない男は願い下げだった。
Bと一緒にいた時の私の体験は、愛されない、というよりも、Bは、私に愛させてくれなかった。愛そうとすると待ったをかけられて、相手の方がリーチが長い手で頭を押さえつけられて、手をジタバタと動かして彼に届こうともがいても届かない、みたいない、愛することを許してもらえない、そんな体験だった。
ちなみに、世の男性諸君よ、女性はね、何があっても好きな人には自分の味方でいて欲しいのですよ。だからね、「お前は何も悪くない」「世界中を敵に回したって俺はお前の味方だ」系のセリフは言えないとダメですよw
と、今度は逆に私が彼の家に転がり込んでいたけれども、結局、1年も経たずに破局した。
捨てる神あれば拾う神あり
で、破局した彼の家から荷物を運び出し、Bに合鍵を返したその日の夜に出会ったのが、今の旦那だから(←ここに来てようやく登場!!)、本当に、捨てる神あれば拾う神あり!って、Bを捨てたのは私か。
でも何か、ここまで来て、ようやく、私は恋愛というものへの幻想を捨てていたし、「恋」というものへの執着もなくなってきていたのは確かだ。
誰かに合わせて生きるのは疲れていたし、盲目になるような共依存な恋愛もまっぴらだった。
たった1人でいい。たった1人でいいんだ。
私を大切にしてくれる人。それだけなんです、神様。
そうオーダーしていたことを覚えている。
愛をくれる人であることは大切な要素だったが、心から愛することができて、愛させてくれる。自分の生きる軸がちゃんとあって、それでいて、「私」という人生をちゃんと確立させてくれる人。
何気なく過ごす日常、ご飯を作って食べる時間や買い出しや洗濯、そういう日々の家事を一緒にしていて楽しい人、特別なことはなくていいから・・・。と、本当に自分の人生に必要な人、欲しい人を非常に明確に言葉にしながらビジュアライズもして、本当に人生を共に過ごすために最適な男性のイメージをかなり固めていた。
・・・ということを考えた時に、Bではないな、ということがわかって、ずっと引きずっていた違和感に蓋をして、とにかく誰かと一緒にいて、寂しさを埋めたかっただけの自分を認めて、
いい!理想の人に出会うまで、私は寂しさに耐える!今度こそ、寂しさに任せて惚れたりなんぞしないぞ!
という感じで、結構、気合を入れてBと別れたのであった。
そしたらその日の夜のイベントで出会ったのが今の旦那で、初デートの誘いが来たのがその二日後で、「これはきっと付き合うことになるぞ」と予感したので、多分、Bと別れて3週間後くらいには、彼氏になっていた。
・・・ので、どの辺が「今度は寂しさに耐える!」という覚悟が反映されているのか、客観的に見たら怪しかっただろう。
でも、まぁ、あの出会いからすでに10年以上経った今も、その人とは一緒にいる訳なので、その時の宇宙(神)へのオーダーの具体的さが勝因だったと、私はわりかし真剣に思っている笑。なぜなら、出会う前にビジュアライズした通りの人だから。
そう、これも今、私が仕事でも言っている、ビジュアライズが大事だ、という由縁にもなっている。イメージできることは叶うのだよ。
・・・力尽きたので、旦那との馴れ初めは、また次回にでも綴ることにしよう。読みたい人がいればw
追記。読みたい、と言う声があったので!
続編はこちら!