幽霊作家⑰
ゆめさんと出会って、今日で四日目。ようやく小説を書くと言いだしたので、執筆用のパソコンの電源を入れる。
データを開いて、ここから先、僕は言われた事を、タイプするだけの機械になるため、キーボードの上に手を置いて、じっとゆめさんの言葉を待つ。
しかし、一分待っても、十分待ってもゆめさんは何も話さない。
僕から視線を向けられたゆめさんは、照れたように頬を染め、恨めしそうにこちらを睨んでいた。
想定していた事態になったのは、間違いないだろう。
今からゆめさんは、自分の書きたいことを声に出さなくてはならない。僕に想像できる範囲だと、読書感想文やレポートになるが、書き終わってもいないこれらを音読するのは、吹っ切れないと出来そうもない。
「よ、夜が明けて……」
ようやくゆめさんが話し出したのは、パソコンが立ち上がってから、三十分以上たってからだった。消え入りそうな声を何とか聞き取りながら、文字に表していくのだけれど、十分と経たないうちに、ゆめさんがまた沈黙する。
再開の時間は短くなっていくものの、書き始めて一時間経っても、五行くらいしか進んでいない。しかも、また長い沈黙が始まった。
理由は恐らく、ここから会話文が始まるから。ゆめさんは全身に力を入れているらしく、下を向いて微動している。
握られた拳から、スッと力が抜けて、首を振った。
「ごめんなさい。とりあえず、ここまででいいですか?」
「僕は構わないけど、締め切りだけ確認しても良い?」
「あと……一週間くらいです」
目を合わせようとしないゆめさんは、本当の事は言っていない子供のようで、実は大人でも沢山いるのだと数年の間に思い知らされた。
締め切りは、あと五日くらいだと仮定して、一日か二日はゆめさんのチェックが入るから、ボーダーラインはあと三日。残りの仕事量は僕にはわからないけれど、一週間程度――三日かもしれないが――あれば余裕で出来ると思っていたくらい。
「気分転換でもしに行こうか。どこか行きたい所はある?」
「人が来ない、綺麗なところが良いです。黙って考えるのには、ピッタリですから」
考えてしまったら気分転換にはならないだろうけれど、場所が変われば気分が変わるかもしれないので、一か所心当たりのある場所に向けて、パソコンを入れた手提げを持って自転車に跨った。
自転車やバイクに乗った場合、ゆめさんがついてこられるかというのは、密かに気になっていた事の一つである。
で、ゆめさんだが、問題なくついてくるどころか、自転車よりも速く動けるらしい。
家からそんなに離れていない山のふもとに自転車を止めた。あまり整備されているようには見えない道と、文字が薄く朽ちかけている看板を追いかけて、山を登ること三十分。
轟音と共に視界が開けて、白い水しぶきを上げ太陽の光にきらめく滝が姿を見せた。
決して大きくはないけれど、長い間ほとんど人の目に触れていないであろうこの場所は、人の世界から一線を隔すような、神秘的な雰囲気に包まれている。かつては人がたくさん来ていたためか、よく見たらまだゴミが残っているけれど、他の場所に比べたら目を瞑れるレベルだろう。
春先だと寒くて、何か羽織ってくればよかったと後悔するが、寒いからこそ人が来る可能性も下がる。
「やっぱり滝の音は大きいね」
「まあ、滝ですからね」
小学生のような僕のコメントを、ゆめさんが一蹴する。
しかし、場所自体は悪くなかったようで、僕から離れて滝壺ギリギリまで飛んで行った。
膝を抱えるように座り、じっと滝を眺めている。
何を考えているかは、僕のあずかり知る所ではない。
肌寒さもあるので、何か言われるまでゴミ拾いをすることにした。
ゴミを拾うのはいいけれど、ビニール袋も何も持っていないため、一か所に集めるのにとどまった。
あとから誰か来ることも無いだろうから、次に来ることがあれば持ち帰る事にしよう。
「ゴミ拾いは終わりましたか?」
「ごめん。待たせた?」
「変な人を観察していたので、大丈夫ですよ」
変な人とは僕の事か。
「観察しても、楽しくないと思うんだけど」
「世の中には、こんな人もいる事実だけでも、小説の肥やしにはなりますから。何でゴミ拾いしていたんですか?」
「目についたから、かな」
何かを考えて始めたわけではないので、無難に答えたつもりだったのだが、どうやらゆめさんは気に入らないらしい。
白い目をこちらに向けて、偽善だと言わんばかりに「良い人なんですね」と言い捨てた。
「別に善意でやっているわけじゃないよ」
「やって当然って言いたいんですか?」
「ゆめさんは自分部屋にゴミが落ちていたら、ごみ箱に捨てるでしょ?」
「確かに捨てますけど、同じだって言いたいんですか? 私の部屋は、私だけの空間とも言えますが、ここは別に萩原さんのモノではないですよね?」
「だから、困ったもんだよね。無意識に自分のモノって思っているんだろうから。
場合によっては、ゴミ捨てる人よりも厄介になるよ」
自分の気持ちを偽らないように、言葉を選んでいるのだけれど、何というかあまりぴたりと来るものがない。
ゆめさんも納得できないのか、不機嫌そうに質問を続ける。
「だとしたら、ここに誰かが入ってくること自体、嫌なんですか?」
「たぶん、工事か何かで滝自体無くなる事があっても、仕方ないで終わるかも。
んー、感覚的には、小学校の時の遠足で、帰る前に『来た時よりも美しく』って、ゴミ拾いしていた時に近いのかな。
モノがゴミでも、沢山集める事が楽しくなっているのかも」
これなら、何となくしっくりくる。拾い始めた理由はともかく、拾い続けていた理由にはなるだろう。ゆめさんは呆れたように息を吐いた。
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