父が死んだ

父が亡くなった。
82歳。大往生だ。

私の身内向けに彼の略人生。私の知る限り。を書き残しておこうと思う。

父は昭和17年生れ。太平洋戦争の終戦は昭和20年なので戦中の生まれ。満州へ行っていた日本陸軍人の父の三男として生まれた。

4人兄弟の末っ子。え?3人では?と思うかもしれない。実は1人は自殺している。何度かその原因を聞いたことはあったが「運が悪かった」という程度しか話してくれない。過去帳には記してあるが、遺影もなく写真も特別少ないので私もよく知らない。

さて、話戻って父の話。名前にある「伸」の漢字に込められた願いは、日本帝国の大東亜共栄圏が南方へより「伸びよ」という願いから。時代だね。

父は出生後の成育がやや遅く1年遅れで小学校に入学したと聞いたことがある。定かではないが昔はよくあったことらしい。3月生まれだし余計かもね。大学は立命館大学を卒業。因みに父の兄弟はかなり優秀で、長男が京都大学、長女が京都女子大学を卒業している。卒業後は国家公務員となって定年の60歳まで勤め上げた。主にしていた仕事は大学図書館での司書、民俗博物館勤務など。

私生活は32?で結婚し子どもを2人授かる。自ら子どもと強く関係性を築いて関与するタイプではなかったが、経済的には責任を全うし育て上げた。私には父との共通の思い出はあまりない。正直な気持ち、特別好きでもないし嫌いでもない。父は妻との関係は最悪だった。私は夫婦が笑顔で会話している所を見たことがない。父曰く、母はある日を境に(私が小学校入学の頃)急に態度が変わってしまった。と言っていた。時代もあり男のサラリーマン後半戦は単身赴任が増える。それに乗っかり父は過ごし辛い自宅より一人暮らしの方がマシと、進んで定年退職するまで単身赴任を続けた。退職後も別居を通した。

退職後は最初いくつかの大学で非常勤講師を務めた。佛教大学で教壇に立ち「試験はマークシートではなく記述式にしている」という会話をしたのを覚えている。それから小説を8冊書き上げた。取材旅行兼ねて一人でツアーの海外旅行にたくさん行っていた。クラシック音楽を聴くのも好きだった。

81歳の夏、自宅で倒れて救急搬送され病院に4ヶ月。その後私の自宅近くの施設で10ヶ月。9/16敬老の日の朝、施設での朝食を喉に詰まらせて救急搬送された。私が病院に駆けつけた時は既に蘇生措置を続けて1時間経過していた。心肺停止状態から「帰ってこない」との事で私が蘇生措置の停止を判断した。救急待合室で私は泣いた。

馬に乗った父の遺影は、私と弟で探した1枚。北欧?への旅行時の写真。珍しくいい笑顔での写真なので私と弟は気に入っている。

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