小説 : 小さな嘘
6月下旬の新宿は、雨と埃と微かな夏の匂いがする。
地下鉄を降りて、地上への階段を上がったとき、そんな事を思ったので、隣を歩く彼女に話してみた。
新宿は香水と排ガスと酒の匂いしか感じないねえ。彼女は少し赤らんだ顔で陽気に言う。それほとんど自分の匂いじゃん。僕らは笑いながら夜の新宿を歩いていた。
僕らがこうして会うのはまだ数える程だが、周りから見れば、10年来の付き合いに見えてもおかしくない。初めて会ったのは、去年の12月、大学3年生向けの冬のインターンだった。同じ業界志望で、同じグループワークの班だったので、仲良くなるのにそんなに時間はかからなかった。関西の大学からはるばる東京まで足を運んだ彼女は、持ち前の積極性と明るい表情で僕らの班のムードメーカーとして遺憾なく力を発揮していた。
誰とでも仲良くなれる気質のある彼女は、当然僕とも親しくなった。就活が始まった3月ごろ、彼女が上京する連絡を貰えば、定期的に会って近況報告をするようになった。
今日僕らは、晴れて就職先がきまり、お互いの健闘をたたえるために新宿で再会した。お互いの苦労話に花を咲かせて、2人が去った居酒屋のテーブルには、空いたグラスが山のように並んでいた。
2軒目の店を出る頃には、二人とも立派な酔っ払いとして出来上がっていた。足取りの覚束ないお互いを指さしながら笑いつつも、頭の隅ではその状況を冷静に俯瞰している自分がいる。僕と彼女の関係性は、近づきすぎても離れすぎてもいけない。臨界値を突破すれば、爆弾が爆発してしまうからだ。
夜の新宿の街並みは煌びやかで、路上に佇む人々のおしゃべりが夜の街に吸い込まれていく。日本で最も人間が行き来する街は、あらゆる人種、人格、思想、人間関係を混ぜて溶かして見えなくしてしまうだろう。そしてドロドロになった液体は、料理人によって好きな形の型抜きに流し込まれ、それを見た人は元の形を想像することもできない。
きっと周りからみた僕らは、10年来の悪友か、友達のような関係の恋人のように見えるのかもしれない。確かに、僕らの関係性はそれらに近いかもしれない。でも、そんな安易な言葉で片付けられない理由が僕にはあった。
僕は彼女に小さな嘘をついた。それは、僕の心の弱さから出た嘘だ。
初めて会ったインターンの日。同じ班だったメンバーで打ち上げと称して飲み会に来ていた。他愛もない会話しかしていなかったので、誰が言ったのかは覚えていない。
「彼女いるの?」
この問いを最初に振られたのが僕だった。やましさは無かったが、まだ出会って一日目の人に対する遠慮と恥ずかしさが、僕の言うべき台詞を歪ませた。
「いたらいいんだけどねー」
人の不幸は蜜の味という。口角を下げて渋そうな表情をすると、周りは反対に「意外ー」とか「好きな人は?」とか言って、嬉々として盛り上がる。僕はその時、何より場の雰囲気を盛り下げないように気を使っていた。僕が最初に聞かれなければ、こんな嘘もつかなかっただろう。人間関係に関わる話は、最初の人の発言によって場の雰囲気が大きく変わる。これ以降もう会うことのない関係性なら、今までも場を繋ぐ方便を使ってやり過ごしてきた。その時はその程度にしか考えていなかったのだ。
インターンが終わってから、彼女が就職活動のため上京する度に連絡が来るようになった。彼女と会えば、志を同じくする者として心強く勇気づけられたが、僕の心にはそれ以上に焦燥感と罪悪感が募っていた。
二人で会う回数が増える度、メッセージのやり取りが長く続く度に、僕の中であの日放った小さな嘘が大きく重く膨らんで、心臓の下に爆弾が仕込まれているような気分になった。
友人として以上の好意を滲ませてくるその仕草や表情を目の当たりにする度、会ったことを後悔する。そして、彼女に嘘をついていたことを告白する勇気も、彼女からの好意をはねのける強さもない自分を嫌悪する。自分が傷つかないために、中途半端な優しさを彼女に与え続け、それが罪悪感を大きくしていることは自覚している。
彼女がもう一軒行こうと僕の袖を引っ張る。次は落ち着いた雰囲気のバーがいいと。
彼女は僕との距離の臨界点を超えようとしている。彼女がそのラインを踏んだ時、僕は新たな嘘を重ねて、心の爆弾をさらに大きくするか、すべてを告白して爆弾を爆発させるか、どちらかしかない。
彼女のつけている甘ったるい香水が、埃の匂いに交じって僕の思考を鈍らせる。僕と彼女の関係性は、新宿の喧噪にぐちゃぐちゃに崩されて、激しい流れの渦に飲み込まれていく。もう流れに抗うことはできないだろう。そして、次もし形を成すことがあったとしても、僕が望む形にはならないのだ。