第3回世界の名匠シリーズ ジャン:ミシェル・バスキア
こんばんわ
本日も世界の名匠シリーズ始めていきたいと思います。
本日の名匠は『ジャン:ミシェル バスキア』です。
みなさんバスキアはご存じですか?ゴッホやモネ、ダヴィンチなどに比べると知名度は少し劣るかもしれません。
でも絶対に知っておいて損はないですよ!!!
表題の画像はバスキアの絵画作品ですが、元ZOZOTOWNの前澤さんがオークションで、2017年にアート界においてアメリカ史上最高額123億円で落札したことでも知られている絵画にです。
皆さん見た事ないですか??
そんなバスキアの生涯を今日はご紹介していこうと思います。
1960年 NYブルックリンで産まれます。小さいころから母親に連れられ、よく美術館に通っていました。バスキアはいわゆる天才肌で幼少期から描いていた絵も評価されていました。
また11歳の頃には、フランス語、スペイン語、英語と3カ国語話せていたといいます。またそのころ足を骨折し、入院中母親にもらったGRAY'Sという解剖学の本に強い関心を抱き、後の彼のアートの基盤になったともいわれています。
そして月日は流れ、両親の離婚後、父親に育てられます。17歳になったバスキアは地下鉄やスラム街の壁にスプレーペインティングを始めます。
同時にアルディアスという友人と【SAMOc】を結成。SAMOcとはセイモーSame Old hit(いつもとおなじさ)という意味。これを結成した二人は、1978年初めから79年終わりまで、約2年間マンハッタンの路上をキャンパスに活動を行いました。
同時にこのグラフィティーアートをTシャツやポストカードにして販売し生計を立てていました。
徐々にこの活動が評価され、1980年に伝説的な展覧会≪タイムズスクエアショウ≫で作品を初めて展示。一気にバスキアはスターダムにのし上がり、キースへリングなどの助力で個展を開くことに。バスキアの評価は確立し、経済的成功も収めます。
そして1983年【アンディーウォーホル】と出会います。後にウォーホルは『バスキアと出会った瞬間、瞬時に彼の才能を確信した』と評すように、この後、ウォーホルとバスキアは共同で作品の制作に取り掛かります。
バスキアとしても、富と名声を手に入れているウォーホルはいわば、アート界の王様。悩みなども吐露するくらい心を許し、ウォーホル共々お互いが刺激しあい、高めあえる存在だと思っていました。
そんな二人の関係は、1987年ウォーホルの死で終止符打つこととなります。そして翌年の1988年後を追うように、バスキアもコカインのオーバードース(過剰摂取)により27歳の若さでこの世を去りました。
彼はたった10年の画家生活の中、ドローイング3000点、絵画1000点と多くの作品を残しています。
バスキアのアート作品は『挑戦的二分法』と呼ばれ
【金持ちと貧乏】【分離と統合】【外側と内側】といった二分法に焦点を当てた制作されるもので、歴史的な事件や現代社会問題の主題をドローイングや絵画などで抽象的にあるいは具象的に表現しています。
その表現方法が高く評価され、彼の死後も展覧会は人気を博します。
レオナルドディカプリオやジョニーデップも彼の作品を所有されているそうです。
これは僕の主観なのですが、すごくゴッホと生きてきた道が似ているなと感じました。たった10年の画家生活の中で多くの作品を残し、そして死後も評価は上がり続ける。
ゴッホとバスキア、作風は全然違いますが自分の心の中からの叫びを、想いをアート作品として世の中に警笛を鳴らす。
そしてバスキアもウォーホルの死という辛いことがあったとはいえ、自ら死に近づいていく所など。僕の中では二人がダブって見えていました。
まだゴッホほどは有名ではないですが、近い将来ゴッホと肩を並べ誰しもが知っている名匠へとなっていってほしいです。
そして天国の二人は、似た者同士として手を取り合って肩を組んで歩んでいて欲しいものです。
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