経験が想像を超えるということの実感


本を読むことを苦としなかった人生を幼少期から過ごしていたから、本を読みたいと思っても読めなくなる時が来るなんて思ってもみなかった

予想以上に早く訪れた介護経験を経て適応障害になったとき、悪阻で何もできずただ生きることに必死になった時

多少の皮膚疾患などで苦労しつつも、概ね健康優良児で生きてきた私にとって気合いと気力でどうしようもできないことに対面するのは初めてで、
本を読むことができないという現象と対面した時は驚いた


適応障害って一般的に世に伝えられている見解においては、「要因となっていることから離れれば元に戻る。それまでは耳鳴りや疲労感、憂鬱感を感じる等の症状がある」みたいなことが述べられるけれど、要因から離れてどのくらいで元の自分に近しくなるのか、どんな症状がでたときにどうしたら良いのかの対処法は人によって異なり自分で見つけるしかない。

悪阻もそうだ。少しずつ海外の論文で原因が解明されつつあるものの、程度や頻度、対処法などはまだまだ明かされていないことばかりで人によって異なる。
女性によっても妊娠した人全てに発生するわけでもなく、ましてや生物学的に男性と分けられる人たちは経験し得ないことだからこそ共感や理解は得づらい。


何が一番辛いって「我慢強いね、根性あるね」と親や他人からよく言われ続け自分の気合いや根性を頼りに人生の道を切り開いてきた私が、それらが一切通用しない現実を受け止めて、ただ死なないように生をつなぐために呼吸をしなければならない日々を過ごさなければならないことだった。


本当にね、何もできないのよ。
スマホを見てもホーム画面から見たいものが見つからない。
大好きな洋服のサイトなんて放っておけば数時間見続けるのに、サイトすら開けない。
大好きな俳優やアイドルのドラマも集中力が続かなくて途中で消してしまう。
YouTubeの5分動画も2分くらいで飽きてしまう。
活字なんてもってのほか本を開くことすらできない。

かといって宙を仰いでいれば、根性と気合の割合多めでこれまで人生を切り開いてきた自分が真逆の状況にあることを受け止められず、過去を振り返り今の自分に価値があるのかを考え続けてしまう。
(介護の直後なんて自分の介護の採点を自分で始めた時には地獄だった)


なんて健康とは尊いものなのか。
そしてこれまで夢中になって執着していたものたちは自分の健康のうえに成り立っていたのか。

健康な時には感染症に罹患したり、風邪を引いた身近な経験からなんとなくわかっているような気になっていたけれど、本当の意味でただ息をして死なないように生きる日々を送ると自分の人生において健康がいかに大切かを実感した。


介護をして病に付した家族の最期を見届ける日々は辛くも苦しく、対介護者との自分と対社会(会社)の自分、対他の家族や親族との自分、対自分との自分の輪郭がうやむやになって何を優先するべきか自分にできることは何かがわからなくなっていた。

あの時は辛くて辛くて仕方なかったけれど、今ではきっと介護の前に自身が適応障害や悪阻の経験があれば、もっと介護を必要とする家族に寄り添うことができたのにと後悔する日々。

けれども、この世にいない人を想いどうしようもできない過去に胸を痛めるのは自分を痛めつけるだけなので、未来に向けて活かせる人になれば良いと自分で自分を納得させる。


病に付すということが自分の意思に反して心身ともに何もできなくなることを実際に体験していなくとも、相手の状況を目で見て耳で聞いて知識を集めて想像して、自分の輪郭がうやむやな状態でも愛する人のためにその時の自分にできることをしてきたのは事実。


何が言いたいかまとまりがなくなってきたけれど、経験は想像を容易く超えるし、経験のある人はやはり強い。

けれど、経験がないために想像を膨らませて相手を想うこともまた人生においては必要なことでそれも愛だと想う。


限られた人生において経験はやはり強いからこそ前向きに経験できることはしていきたいと想うし、想像することも忘れてはいけないと心に刻む。
けれど、想像するうえでは経験した人には勝てない部分もあるということを頭の片隅において謙虚な姿勢で物事を捉えていきたい。
反対に自身の経験が全てととらえず、自身の経験はあくまで自分の状況、環境、感性等が一致したなかでの経験と捉えそこにおいても謙虚に他のパターンを想像することを忘れない。


とにかく健康は重要。
自分が心身もに健康でいることは、共に生きる人や関わる人への愛だと想う。

悲しい別れをたくさんしてきた今の自分だからこそ、大切な人が人生においている自分だからこそ、自分を大切にして守って大切な人を想って愛していきたい。


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