もう大丈夫。泣いてもいいよ
ふと思い出し、6年前の春に書いた文章を読み返す。
タイトルは「20歳の私へ」となっていた。
26歳になった自分が、辛かった頃の自分に向けてメッセージを書いていた。
それから6年経って読み返している今も、油断をすると涙がこぼれそうになる。
文字のひとつひとつから「助けて」という声が聞こえてきそうだからだ。
私が自分自身の本音をきちんと受け止められるようになったのは、30代になり、結婚をして、妊娠や出産を経てからだと思っている。
それまでは、始めにある文章のように、必死に気が付かないように取り繕っていた。
文字通り、そのことに気が付いてしまった瞬間、生きていけない気がしたからだ。
今だからこそ、嬉しい時は笑うし、悲しい時は泣いて、感情をこれでもかと言うほど出し尽くす私になっているが、必死に取り繕っていた頃は、どんな時でも笑顔の仮面を顔に貼り付けて生活をしていた。
悲しくても、悔しくても、人前で泣くことなど滅多になかった。
今でも、季節ごとのイベントや年末年始、大型連休、「家族」が関わるようなイベントごとは苦手だ。
自分にはもう家族がいるのに、身体が勝手に反応して、ソワソワしてしまう。
それほど、10代、20代の私へのダメージは大きかったのだと思う。
当時は、たまに文章として吐き出し、自分の気持ちをどうにか抑えようとしていたのだと思うが、それでも常に「もう楽になりたい」と心の奥底では願っていた。
当時の私にとって、「ひとりで過ごすこと」は「私には家族がいません」と答えを出してしまっている気がして、
きっと本当は「そんなことないって信じたい」と願っていたのだと思う。
お母さんが出て行った。お兄ちゃんやお父さんから暴力を受けた。
家族にお金を貸してと言われ、断ると盗まれた。実家が売られた。荷物はすべて廃棄処分されていた。
「学費を払ってください」と頭を下げ、床にお金を投げられたこと。
逃げるように立ち去る私の背中に「もうしねよ」と言われたこと。
出て行った母親に「あんたが羨ましい」と言われ、グチをこぼされる日々や、
賃貸契約の保証人、就職先の緊急連絡先に誰の名前も書けなかったこと。
どうして一人で生きていくことはこんなにも難しいのだろうと、生きるのをやめたくなった日々。
ここまで事実を並べても、「そんなことないって信じたい」と思っていた当時の自分も、
もうすべてを受け入れて、たまに思い出して夜通し泣いたりしながらも「まぁ生きていくしかないよね」と立ち直る今の自分も、全部、私だ。
どの自分も否定しようとは思わない。今の自分が立派だとも思わない。
ただ、今だからこそ、信じたくて必死にもがいていた当時の自分に言ってあげたいとは思う。
「信じたかったよね。
お母さんも、お父さんも、お兄ちゃんも、大好きだったよね。
いつか自分の過ちに気が付いて『辛い思いさせてごめんね。悪かったね。ほらおいで』と抱きしめて欲しかったよね。
いつだってそう願ってたよね。だから誰に対しても怒れなかったんだよね」
こんな風になれたのも、今まさに私が親となり、息子に同じような声かけをしているからで。
まだ言葉も話せない息子が大きな声で泣くたびに
「どうしたの?痛かった?寂しかった?ぎゅってして欲しかったのかな。寂しかったよね」
と声をかけ、抱きしめる。
そうやって息子を抱きしめる度、ふと振り返ると、辛くても泣けないでいた昔の自分が、頭の片隅で、何となくこちらを見ていて。
どんなに裏切られても、ひどいことをされても、傷跡が残っても、それでも、「もしかしたら愛してくれるかも」と希望を持っていた自分が、
「もう楽になりたい」と死ぬことを何度も迷いながらも、それでも何かにしがみついて生きていた自分が、「もう泣いてもいいんだ」とやっと泣くことができている気がしている。
私がたまに意味もなく泣いてしまうのは、当時の自分の分まで泣いているからなのかもしれない。
傷跡は消えない。消えないけどね。生きることはできるから。
そして生きていたらね、家族に出会えるよ。帰れる家もあるよ。
26歳の自分が残したメッセージの最後は、こう締めくくられている。
こうして私は、何度も未来の自分自身に励まされながら、今も生きている。
生きててよかったね。よくがんばったね。
もう大丈夫。泣いてもいいよ。
32歳の私より。
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