最後の人でありたかった
今こうして文章を書くようになって、「あぁよく書けたな」と思う瞬間は山ほどあるけれど、それでも「過去の自分」の文章には到底敵わないと思う。
それくらい、失恋したばかりの2013年の私は、良い文を書いていた。当時の自分にしかできない表現だと思った。
長すぎる春だった。学生時代の6年間、彼と共に過ごし、同棲もしていた。
このまま結婚するものだと思っていたし、彼との未来は数え切れないくらい想像した。
親から捨てられた私が何とか生き延びていたのは、全て彼のおかげだった。
好きな人ができるということ。
その人に触れた時のあたたかさ。やさしさ。いとおしさ。
好きだからこそ湧き上がる怒りや嫉妬の気持ち。
誰かとそばにいることの安心感。血の繋がりがなくても家族でいてくれたこと。
誰かを愛して、誰かに愛されることの尊さ、残酷さ、裏切り、死にたくなるような悲しみも。
全てを教えてくれたのが彼だった。
小さな木造アパートで、明け方に仕事から帰ってくる彼の自転車の音を聞くのが好きだった。
少し遠くの方から、カランカランというタイヤの音が微かに聞こえて、少しずつ近づいてきて。
ガタンという自転車を停める音と、階段を上がる靴音。
ドアの鍵をゆっくり開けて、私を起こさないようにそーっと家の中を歩く彼が大好きだった。
私が住む家に、好きな人が帰ってくる。
そんな奇跡が起きるなんてと、いつも思っていた。
彼の吸っていたタバコの香りは今でもよく覚えている。
街中で同じ香りがすると、思わず振り返ってしまった日もあった。
タバコの香りも、大好きだった気持ちも、明け方、起こさないように気を付けてくれていたことも。
彼が眠っている私の頭を優しく撫でて、わざと寝たふりをしていたあの日も。
どうしてもっともっと大切にできなかったのだろう。
もうあの日は二度と帰ってこないのに、どうしてそんなことにも気付けなかったのだろう。
まだ社会にも出ていなかった、若すぎて未熟だった自分を責める日もあれば、あの選択は正しかったのだと褒める日もある。
未練もなければ後悔もしていないけれど、たまに思い出すのです。
“最後の人でありたかった”。
今の私だったら、誰かとお別れをする時に、こんな言葉が出てくることはもうないだろう。
そこに確かにあったはずの愛にしがみついて、あなたと一緒にいたかったよと素直に泣けたのは、あの頃の私がまだ若くて、未熟で、自分の心に真っ直ぐに生きることに命を懸けていたからだと思う。
“最後の人でありたかった”。
こんなふうに思える人に出会えて良かった。
彼とお別れをした後、どんなに辛いことがあっても、
私が誰かを愛することを決して辞めなかったのは、彼とのあの6年間があったからだと思うから。
これはなんと言ってもaikoの「自転車」ですよね。(唐突)
2013年の文章がもはやaikoに影響されすぎていて、恥ずかしくてモゾモゾしたくなりますが、我ながら好きな温度だったので引用してきました。
実際の文章はもっと長くて、本当に、信じられないくらい長文です。20代前半。大学生。若かったなと思います。
社会人になると同時に家を出てお別れしているので、本当に彼にはお世話になりました。親代わりのような存在でもありました。
彼の話は6年分あるので、今後とも少しずつ書いていきたいと思います(笑)
この曲を初めて聴いた時、私はまだ彼とお付き合いしていましたが、何となくこうなる気がしていたというか、これは私と彼の曲だなぁと感じたのを覚えています。
苦しい、寂しい、切ないけれど、そんな気持ちになるくらい好きな人に出会えたこと。
忘れたくなかった気持ちを、当時のまま思い出すことができて本当に良かった。
aikoの「自転車」、いい曲なのでぜひ聴いてみてくださいね。
「時のシルエット」というアルバムの最後の曲です。