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灰色のミツバチ(2)

 主人公の名前は、セルゲイ・セルゲーイチ。セルゲイという名前(first name)は、ミハイル(ゴルバチョフ)やヴラジミール(プーチン)などと同じように、ロシア語の男性名の中ではごく一般的。ウクライナでセルゲイと言えば、例えば往年の棒高跳びの英雄、セルゲイ・ブブカが有名だろうか?
 本作品では、「灰色の」を意味する形容詞「セーリィ」と音が似ていることもあり、主人公の名前として作者に「採用された」ようだ。物語の中でも、あだ名として「セーリィ」と同じ村に住む幼馴染のパーシャに呼ばれている。この点は、沼野先生の書かれた「訳者あとがき」に書かれている。

 ところで、そもそも「セルゲイ」の語源は何なのだろう?と、今さらながら興味を持ち、調べてみた。どうやら、古代ローマ時代の貴族「セルギウス家」に源を発するらしい。5世紀にセルギウスとバッカスという2人のローマ帝国の軍人がいた。しかし、キリスト教徒であることが発覚して処刑されている。以降、セルギウスは「聖なる名」としてブランド化したようで、同じ名前を持つローマ教皇も過去に4人出ている(セルギウス1世~4世)。
 現代になってもカトリック圏や正教圏では人気なようで、例えばイタリアでは「セルギウス」は「セルジオ」となるそうだ。これは聞き覚えあるだろう。(有名どころでは、ファッション・デザイナーのセルジオ・タッキーニ、映画監督のセルジオ・レオーネなど)

 作者は、殉教した聖人セルギウスのイメージを主人公にも被せているのだろうか?
 主人公は決して軍人でも聖者でもないし、殉教するわけではないが、しかし自然界のミツバチと人間界の中間にいて、ミツバチのために境界線を越えて(無視して)、ミツバチの如く直線的に(=beeline)動く主人公の行動原理は宗教的と言えるかもしれない。

 さて「セルゲイ」の次は「セルゲーイチ」だ。これは「父称」で、スラブ系の民族に特徴的。「セルゲイさんの息子」ということ。セルゲイの息子のセルゲイ、というのは親子二人を同時に相手にする場合には多少ややこしそうだが、意外と存在する。例えば、ロシアのプーチン大統領は、「ヴラジミール・ヴラジミーロヴィッチ」だ。ちなみに「ヴラジミール」とは、「ミール(世界)をヴラディ―(征服せよ)」の意。

 他に、名前と父称が同じ有名人としては、帝政ロシア時代の風景画家シーシキンは「イワン・イワ―ノヴィッチ」だ。(シーシキンについては、次回で触れるかもしれない)

 ここで目がいくのは、ロシア語読みの「セルゲーヴィッチ」ではなく、ウクライナ語読みの「セルゲーイチ」となっている点。この主人公は、(作者と同じく)ロシア語を母語としているのだが、ウクライナでは、ソ連崩壊後に公文書はウクライナ語での表記が義務付けられたので、父称はウクライナ風で呼んでいる、ということだろう。

 主人公の名前について(殆ど脱線しながら)長々と述べたのには理由がある。
 それは、作者は(あえて)平凡な、しかし平凡すぎるが故に逆に印象的な名前を主人公のために選んだのではないか? そして、それが本作品の「キーポイント」ではないか?と思うからだ。
 あえて地味でありふれた名前、しかもウクライナ語風の父称で呼ぶことで、「平凡なウクライナのおっさん」が主人公、つまり「この地に生まれたウクライナ人ならば、誰もがこの男になり得る」、もっと言ってしまえば「この男にこれから起きることは、時空を超えていつかあなたの身に起きることかもしれない」「少なくと、そのように読んでもらいたい」という、作者の隠れたメッセージだと、私は受け止めた。
 「罪と罰」の主人公・ラスコーリニコフ(ロシア正教の「分離派」を暗に仄めかす)がかなり特殊な名前なのとは好対照である。

 そして、主人公の名前の「付け方」は、タイトル「灰色のミツバチ」のもう一つの意味ともリンクする気がしてならない。

 つまり、「灰色のミツバチ」のもう一つの意味は、「白と黒の中間、どちらにも属さないが、どちらの色も混じっていないと生まれない、私という男」、つまり物理的に実際グレーゾーンに住む主人公であり、ウクライナ国籍のロシア語作家である作者自身であり、ひいては何らかの意味で二つの世界の境界線上にいる読者全員、つまり「全人類」と置き換えてもいいかもしれない。

 それが作者の狙いであれば、この神話的な構造を持つ作品は紛れもない世界文学だと言えるのではないだろうか?

(つづく)

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