積み重ね(努力)と積み残し(後悔)の関係。

 積み重ねと積み残しの関係の話。日々の積み重ねは大切だと人は言う。継続的な努力なんて無意味じゃないか、とニヒリスティックに訳知り顔で言う人もいる。
 あのときにああしておけば良かったと後悔する人がいる。日々の積み残しが今になって自分に後悔となって現れる。そのときの怒りや虚しさは耐えがたいものだ。
 しかし、何もやりたくない、怠惰でいさせてくれ、とも思う。その日々の積み残しの復讐と日々の積み重ねのための少しずつの我慢。天秤にかけてどちらがより嫌なのだろうかと考えてみる。
 健全さとか健康さの象徴みたいで嫌なんです、とある人は言う。日々の積み重ねのことだ。ただ一方で若い頃のことを思い出したときに現れる嫌な思い出たち、深い後悔。
 不健康でいたい、怠惰でいたいとも言うが、後悔とか苦しみというのは不健康なことなのだろうか。不健康や怠惰に耐えることは、遺伝的に恵まれた体躯を持たぬ限り、なかなかしがたいことだと思う。
 32才になって、本を読むという精神衛生に悪くとても不健康な行為や無目的なドライブ長距離旅行、どちらも私にとっては健康な心身が維持できていなければできないことであり、日々のジョギングと筋トレの継続が不可欠だ。
 それらはすべて、今やるべきことを、今日できることを今日やる、とという感じで少しずつ数年に渡って続けてきたことだ。
 仕事も同じだ。誰かに必要とされているということがどれだけ精神衛生を保つものか、生活リズムを保ち、それがどれだけ適切な睡眠を保つものか、最近ではしみじみと分かるものだ。
 後悔にも2種類ある。やった後悔とやらなかった後悔だ。過去にやった取り返しのつかない失敗なんて山ほどあるが、やらなかった後悔は思い出せない。
 それはもちろん27才まで学生をやり好きなことばかりしていた、環境に恵まれた私だからそう思うのかもしれないが、積み残しというものに気づいたのは他の恵まれた人たちにはできなかったことかもしれない。

 これなら誰かを説得できるかもしれない。説得的な表現を思いついたときの喜びは何事にも代えがたい。本を日々読んでいて良かった。