大乗仏教の「仏」について
【仏】
「仏」の語源は「煩悩の結び目を解く」です。釈迦「仏陀」のような聖者も仏と呼ばれています。仏陀とは「悟りを開いた人」という意味です。仏教そのものや、悟りを開くための方法を「仏法」と呼びます。本来、万物とは、仏という一つのものです。そこに、区別などありませんでした。しかし、自分の認識が、一つであるものを分別しています。人間は、事物をありのままに見ているわけではありません。先入観や偏見でものを見ているからです。この世界とは、自分自身の認識が、そのように見ているものにすぎません。仏さまの心を「仏心」といいます。それは、修行によって作られるものではありません。 仏心とは、もともと人間に備わっているものだからです。
【空】
仏にも、固有の本性があります。しかし、個々のものには、固有の本性がありません。固有の本性がないことを、大乗仏教では「空」と言います。空は、森羅万象の現象そのものです。その現象は「縁起」によって生じています。縁起とは、相互依存関係のことです。全ての現象は、縁起によって成り立ち、相互に限定されています。その関係性からは、何者も個別独立には、存在していません。
万物「仏」の全体としての性質を「無自性」と言います。自性「じしょう」とは、常に「同一性」と「固有性」を保ち続け、それ自身で存在することです。万物の総体は、常に同じものであり、その働きには、始めも終わりもありませんでした。本来、万物の真実のありようは、平等で無差別です。そのもともとの万物の本性を「法性」と言います。
【煩悩と悟り】
個々のものは、相互依存関係から成り立っています。それは、我「自己」というものも、例外ではなく、何者も、それから切り離されては存在出来きません。そもそも、我というものは、絶対的なものではなく、固定観念であり、経験的な思考習慣です。この我というものに固執することが、苦しみの原因となります。なぜなら、この世界は、必ずしも自分の思い通りにはならないからです。そして、自分の欲望が満たされないと、それが苦しみとなります。その苦しみが「煩悩」です。
煩悩に覆われている限り、人は悩み続けます。煩悩から解放されることが「悟り」です。 ありのままの状態が仏ですが、煩悩がそれを覆い隠しています。自己に内在する仏を発見することが悟りです。悟るには、我という束縛から離れなくてはいけません。それによって、視界がひらけ悟ることが出来るとされています。悟りとは、世界が空であるということを理解することです。その真理を全面的に受け入れることによって、静寂した心境になれます。そうした心境が、悟り「涅槃」の境地です。
【如来蔵】
悟りを開いた人のことを「如来」と言います。如来とは、大乗仏教独自の考え方です。如来の「如」は真理を、「来」は来ることを意味しています。如来とは、悟りの世界と俗世を自由に行き来できる者という意味です。真理を心の内に蔵し、如来となる可能性があることを「如来蔵」と言います。如来蔵の別名が、仏性「ぶっしょう」です。
あらゆるものには、ことごとく仏性があるという考え方を「一切衆生悉有仏性」といいます。一切衆生悉有仏性「いっさいしゅうじょうしつぶっしょう」は、大乗仏教の根本思想です。それによれば、どんなものでも仏になれる可能性がありました。そもそも、人間も万物の一部です。そのため、人間にも、仏になるべき素質が、生まれながらに備わっているはずです。大乗仏教では、その真理を悟ることが、仏になることだとされています。