226事件について
【大戦と515事件】
日本は、日清、日露、第一次大戦と三度の大戦で、勝利し、その賠償金で潤っていました。国民は、それを軍部のおかげだと思っていたとされています。そのため、政府が、軍縮条約に調印したことが不満でした。そんな時、起こったのが世界恐慌です。日本も、その影響で不況になりました。特に農村の貧困状態は、悲惨だったとされています。そんな中、起こったのが515事件です。515事件では、犬養毅首相が、殺害されました。それによって、政党政治が、終焉したとされています。515事件の実行犯は、海軍の青年将校たちです。しかし、彼らの刑は、比較的軽いものでした。それが、226事件の実行犯が、事件を起こした原因の一つだとされています。
226事件を指揮したのは、陸軍の青年将校たちです。もともと海軍と陸軍は、予算を取り合う別組織で、ライバル関係にありました。そのため、同じ日本の軍隊でも一枚岩ではなかったとされています。陸軍の隊員は、貧しい農村の出身者がほとんどでした。そんな彼らを直接指揮していたのが、青年将校たちです。青年将校たちは、隊員から、農村の悲惨な現状をよく聞いていました。そのため、現状の政府に不満を持っていたとされています。彼らは、自分たちのクーデターを「昭和維新」と呼びました。
【皇道派】
当時、陸軍には「皇道派」と「統制派」という派閥がありました。226事件を起こしたのは、皇道派の青年将校たちです。彼らは、特権階級が、天皇と国民を分断していると考えていました。特権階級とは、政財界の人たちのことです。青年将校たちは、武力によって、国家を改造し、天皇親政を実現させようとしました。天皇親政とは、天皇が、直接政治の実権を握ることです。しかし、昭和天皇は、自分が政治の実権握ろうとは思っていませんでした。なぜなら、イギリス立憲君主制を手本としていたからです。
当時、主流だった天皇という存在への考え方を天皇機関説と言います。皇道派は、天皇機関説を一部の法学者の学説にすぎず、違憲だとしていました。天皇機関説とは、天皇が神のような存在ではなく、国家の一つの機関だとする考え方のことです。昭和天皇は、それを受け入れていました。
【226事件】
226事件では、大蔵大臣「高橋是清」や内大臣「斉藤実」らが暗殺されました。ただし、首相の「岡田啓介」は逃げ延びています。226事件に動員された兵士は、約1500名です。そのうち実際に政府を倒そうと思っていたのは少数だとされています。大半は、ただ上官の命令に従って参加しただけだったからです。226事件では「警視庁」「国会議事堂」など、東京の中枢を占拠しました。当初、世論は、彼らに同情的だったとされています。しかし、その状況が一変しました。なぜなら、昭和天皇が、激怒し、彼らを反乱軍としたからです。
青年将校のうち15人は、銃殺刑となり、一般隊員は、元の隊に戻されました。しかし、一般隊員も、226事件に関与した報復人事として、危険な満州へと派遣されたとされています。
226の結果、台頭したのが、統制派の人たちです。統制派は、エリート中のエリートだとされています。基本的に、政府と連携し、合法的な手段で、国家を改革しようとしました。統制派が、目標としたのが技術の近代化と中国への拡大です。彼らの支配で、予算は軍中心となり、軍人による政治が行われるようになりました。その時期、内閣総理大臣となったのが統制派の東條英機です。これ以降、太平洋戦争への道を進むことになりました。