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「それ、落語じゃなくていいだろ」(現在落語論)

立川吉笑著「現在落語論」を読みました。

私は、父がテレビで見る喬太郎師匠の落語を聴きながら、勉強(落語の”勉強”ではなく、大学受験の”勉強”)をしていました。その影響もあり、現代文や英文の勉強の邪魔で邪魔でしょうがない、喬太郎師匠のおかしな落語が好きでした。

もともと、喬太郎師匠の落語、また最近は春風亭昇々さんの落語が好きだったので、2月に擬古典落語「小人十九」を聴いて吉笑さんにも興味を持ちました。

古典”ではない”落語を演じる吉笑さんの語る「それ、落語じゃなくていいだろ」という章が、本書の中でも、特に印象的でした。

伝統性と大衆性という二面を持つ落語の「大衆性」も追求されている吉笑さんの、「なぜ落語なのか」「漫才やコントではできないのか」という問いが、そんなことも考えたことも疑問に思ったことも無かった私には、新鮮で印象的でした。

「なぜ落語なのか」という問いを深める中で、落語には「下半身を省略できる」「容易に場面転換ができる」という特徴があり、詳細を描かなくても表現できるという強みがあるのだと書かれていました。

つまり、逆に考えれば、下半身を省略せずに立って演じたり、舞台をうろうろしたりするのは、落語ではなくて漫才やコントにすれば良いのではないかという主張を感じました。

先日、池袋で行われた三遊亭ふう丈さん企画の福袋演芸場「破壊落語」にて、5つの「破壊落語」を聴きました。

桃月庵白浪「八五郎」
三遊亭天歌「死神王のまね」
林家つる子「クラッシャーズ・ハイ」
柳家やなぎ「ベランダ」
三遊亭ふう丈「最後のギャグ襲」

立って落語をやってみたり、掃除機やハンガーを使ったり、舞台にもう一人人間(死神)が登場したりと、落語なのか、コントなのか、漫才なのか、一体何を見ているのかよくわからない会でした。

どの「破壊落語」も斬新で面白いなと思って聴いていたのですが、5人の中でつる子さんの「クラッシャーズ・ハイ」だけは、伝統性と大衆性を兼ね備えたストーリーかつ、終始きちんと座布団に座っているお話で、一番、私は好みの落語でした。

落語についてあれこれ書かれた本を読み、壊れた落語を聴きに行き、では、聞き手として私自身は落語の何が好きなのかを考えてみました。

1つは、共通認識。

人は、共通点があると一気に親しみがわくということを聴きますが、落語を聴いていると噺・噺家・寄席など、聞き手と噺家が持っている「共通認識」が、漫才やコントと比べてとても多いと思います。「うちの師匠の○○が…」という話や、「昨日、末廣亭で…」など、私たちだけが知っている、「共通認識」に関する話を聴いて笑えるのが、落語ならではだと気が付きました。

もう1つは、双方向性。

Youtubeやラジオなどで聴く落語も、もちろん面白いですが、やはり、その場で聴く落語がダントツで面白いと思います。「微妙な拍手をありがとうございます。」とか、「ピピピピとスマホがなっていますが」とか、「今日は美人ばかりですね」とか、聞き手を見て、反応を話に反映させて笑いをとるのが落語ならではだと気が付きました。聞き手と落語家の双方向のやり取りを楽しむためにも、落語会や寄席に足を運びたいなと思いました。

今後、もし「落語みたいなもの」が増えれば、落語会のシステム、師弟制度が壊れて、ただの大衆芸能になってしまうのではないかと、本書最後に書かれていました。

落語の伝統性が無くなってしまうとしたら、これまで積み上げた聞き手と落語家との「共通認識」や、落語ならではの「双方向性」も薄れてしまうのではないかと、心配になりました。

伝統性も大衆性も兼ね備えた落語を今後も楽しめるように、もっと落語会や寄席に足を運んで応援しようと思います。