「助けて」の叫びが聞こえない。(ザ・スクエア 思いやりの聖域)
2017年カンヌ国際映画祭パルムドール賞受賞の映画「ザ・スクエア 思いやりの聖域」を観ました。
2019年パラサイト、2018年万引き家族、2016年わたしはダニエルブレイク、3作品ともに印象的な映画だったため、2017年のパルムドール賞受賞作品も観てみたいと思い、本作を鑑賞しました。
地面に描いた正方形「ザ・スクエア」の中では、「すべての人が平等の権利を持ち、公平に扱われる」という参加型のアート作品を作った主人公クリスティアン。「傍観者」の多い社会に対して、一石を投じようとしていました。
しかし、皮肉なことにクリスティアン自身も他者の立場に立てていなかったり、「助けて」という叫びを無視し続けたりする描写が印象的でした。
自分は助けを求められた時に、他者へ手を貸せているのかを振りかえってみました。
すると、そもそも、「助けて」という叫びすら聞けていないことに気が付きました。
「助けて」という声すら上げられないほど絶望的な社会なのか、「助けて」という声すら聞こえないほど分断された社会なのか、わかりません。
ただ、私は、「助けて」という叫ぶを聴いて誰かを助けた記憶も、「助けて」という声を聴いたのに行動できなかった記憶も、思い浮かべられませんでした。
自分が助けを求めた時を、思い起こしてみました。
不安と孤独と悲しみに耐え切れずに誰かに助けを求めたかった時。
どうしても高ぶる感情を抑えられずに涙が止まらなかった時。
「助けて」という声を上げられなかった記憶がよみがえります。
今、身近に、「思いやりの聖域 ザ・スクエア」があったとして、どのような人がいたら、「助けて」と声をあげられるのでしょうか。どのように振舞えば他者の助けを求める声を聴けるのでしょうか。
自分だったら、否定しないで欲しいし、目の前の自分に集中して欲しい。何を感じているか大切にしているか感情を想像して欲しいと思います。
それなので、自分も「思いやりの聖域」のある社会に生きたいとすれば、他者を否定せず、中途半端な態度をせず、もっと他者の感情を大切にしなければと思いました。