恋と友情 エッセイにもならない散文
彼女がいると思っていた友人が、私の撮った写真を見て「それマッチングアプリの写真にしようかな」と言ったのを聞いて、あれ彼女と別れたのかな、と思う。
思うけれども聞けるほどではなくてやめる。
彼氏がいないと思っていた友人が、社会人から実家を出て一人暮らしをしていると思っていたのに、「〇〇はずっと一人暮らしじゃないもんなあ」と言われているのを聞いて、あれ同棲している彼氏でも居るということ?と思う。
思うけれども聞けるほどではなくてやめる。
あの頃は聞けていたかもしれないけれど、理由がなければ会わなくて、1年に1度会うか会わないかでそうやってどんどん存在が薄くなっていくと、なんとなく聞けなくなる。
最近は、人に尋ねるということが、全部自分に返ってくるような気もして、気軽に聞けなくなっていく。
友情は蔑ろにしない限り恋やらよりも長く続くから、いつか別れてしまうかもしれない恋の相手よりも同じかそれ以上に大切にしたい、して欲しいと思っていた。
でも友情を重視するあまり、友情を選り好んでしまいどんどんとその幅を狭くしてしまった。
居場所はできるだけたくさん欲しかったのに。
こうやって私が友情をどんなに大切にしようとしても、友情とやらが薄ーく薄ーく伸ばされてどんどん言いたいことや聞きたいことの密度が小さくなっていくのだとしたら、いつか失うかもしれない恋の方が密度が大きいように思えてくる。
愛に変わらなかったものだとしても恋は、愛に変わるかもしれない可能性を含むものだから
薄ーく伸ばされないで、日々に図太く居座って密度は大きく、濃度は濃くなっていくんだろうな。
だから少しずつ、でも着実に友情というのは蔑ろにされて、ひとりぼっちになりたくない人間はどうしても愛というのを、自分の愛というのを見つけ出さなくてはいけなくなるのだろう。