徳川の謎が解けた

 徳川督姫と徳川頼宣は先祖の一人ですので、皆さんに教えたいと思います。


霊魂通信

「徳川家康こと世良田二郎三郎様、父は武田晴信ということを誰から聞いたのですか」

「於大」

「於大の方、於大様は、江田松本坊から江田松本坊の正体を何と聞きましたか」

「武田」

「武田の誰ですか」

「はるのぶ(晴信)」

「晴信ですか」

「そう」

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、ありがとうございます」

17:31「はい」


武田晴信(一五五七年三十六才のとき江田松本坊という名で家臣と二人で放浪中に於大の方と出会う)→徳川家康(六男。母は於大の方。八月五日の夜に生まれた。幼名国松・酒井浄慶・世良田二郎三郎。松平元康の代役。清州同盟の二年後に従五位下三河守となり徳川家康と名乗る)。


 松平元康は十七歳のとき家臣の阿部正豊に害された。松平元康は、元信や家康や徳川を名乗っていない。世良田二郎三郎は松平元康に成りすまし清州同盟の二年後に三河守となり徳川家康と名乗った。徳川家康こと世良田二郎三郎は、関ヶ原で島左近の陪臣の添島左近に五歩のところの草陰から鉄砲で右胸を撃たれて討死した。この三年前から樵臆恵最が徳川家康の影武者になった。樵臆恵最(松平広忠の三男の於義・松平宗忠)は夏の陣で後藤又兵衛に槍で右横腹を刺されて落命した。鯛の天ぷらを食べて死亡したのは農夫太右衛門である。

 督姫からの父は徳川家康こと世良田二郎三郎である。

 徳川頼宣と徳川頼房の父は樵臆恵最である。

 市姫の父は農夫太右衛門である。