父の「作曲の才能ないな」の一言から校歌の作曲者になるまで。
朝ドラ「エール」の作曲家の主人公が、「曲が書けない」もしくは「曲を書いても採用されない」という場面を見ると、自分のことのように胸が苦しくなる。
苦しいのに、音楽から離れられない。
それもめちゃくちゃわかる。
このnoteでは、私が2014年に開校した、木更津市立真舟小学校校歌の作曲者に採用されるまでの話を書いてみようと思う。
・小2で初めて作曲。その時言われた父からの一言「作曲の才能ないな」。その後、25年間作曲できなくなる。
小2の時、通っていた音楽教室ヤ〇ハのグループレッスンで、作曲の宿題が出た。
それまで一度も作曲なんてしたことがなかった私は、ピアノの譜面立てのところに白紙の五線紙を置いて、固まった。
「作曲って、どうすりゃいいんだ!?」
誰にも教わっていないので、聴いたことがあるような、ないようなメロディをぽろんぽろんと弾いてみて、それに後からごく単純な”ソシレ”みたいな和音をつけてみた。
ト長調で、元気な感じの4分の2拍子のその曲は、今でも弾けると思う。
苦労して仕上げて、自分ではまぁまぁよくできたと思ったその曲を聴いて、父は一言いった。
「作曲の才能ないな」
その後の25年間、作ろうと思っても、まったく作曲ができなくなった。
・時は過ぎ、街のピアノの先生になった。
ドラムをやったり、サックスをやったりしては破門になるなどしたのち、続けていたピアノで転がり込むように音大に行き、卒業後は超氷河期で就職活動もうまくいかず、大学卒業1か月前のギリギリセーフで都内楽器店の契約社員に内定。
講師ではなくスタッフとして就職したので、教室のトイレ掃除から始まり、生徒募集のためのティッシュ配り、月1万枚くらいのポスティングもした。今の半分以下のお給料で、今の2倍以上の時間働いて、一人暮らしをしていた。えらすぎる。
その後、結婚し、川崎市立の小学校で音楽専科の非常勤講師をした後、木更津市に転居し、子どもが幼稚園に入るタイミングで自宅にピアノ教室を開いた。開業後すぐは生徒が少なく、時間もあったので、ピアノの指導法、リトミックや音楽療法の勉強のため、たくさんのセミナーに通った。
そんな中、音楽療法のアシスタントとして通っていた市内のブルーベリー園のテーマソングを師匠の鶴の一声で作ることになった。
その曲が、たまたま音楽療法のネタ本に載った。
・Twitter で校歌の作曲者の公募を見つけ、即応募。面接で作曲者に採用。
ある日、Twitterで木更津市に新しく小学校ができ、その校歌の作詞と作曲を公募するらしいと知った。
できるか、できないかも考えず反射的に即応募。
(これが採用されたら、父はギャフンと言うだろうとよぎったのだと思う)
選考方法は、面接で3分間の自己PRと質疑応答のみだった。
過去作品の添付指示もなかったが、自主的に本に載ったブルーベリー園の曲の楽譜を持っていった。
そして、面接のみで校歌の作曲者に採用されてしまった。
嬉しいというより、「私でいいの!?」というのが正直な感想だった。
・創作は不安との闘い。
作詞の方は、アニメの曲や演歌で活躍するプロの方だった。
私はというと、作曲の勉強は、音大の授業で必修だったのでやった和声学、作編曲法の授業でかじったくらいだった。
そして、ハタと「不安しかない!」と気づく。
実行委員の方に「新しくて、前向きな曲をお願いします。」と言われても、「わかりました!」と言って、さらさらと書けるものでもなく…。
「う~ん、これもいいんですけど、もう少し違うパターンも聴いてみたいな~」と軽く言われても、やっと浮かんだ一つのメロディが脳内でリフレインするので、新しいメロディが浮かばない。苦し紛れに10曲提出したけれど、やはり苦しさ満載の曲ばかりで、結局「やっぱり、最初の曲で!」となった。
・歌う子どもたちに号泣。
開校から3か月ほど経った時、学校評議員として小学校の授業を参観させていただいた。5年生が音楽の授業だったので、初めて校歌を生で二部合唱で聴かせてもらう機会があった。
号泣…。
作曲中、歌はボーカロイドに歌わせていたので、透んだ子どもたちの歌声に触れて、勝手に涙があふれてきた。こんな経験は初めてだった。
演奏後、感想を聞かれても、涙でぐしゃぐしゃになってしまい、何も言えなかった。
本当は「校歌を、こんなに素敵に育ててくれて、ありがとう!」と子どもたちに伝えたかった。
・一発屋はいやだ。そうだ、次の曲を作ろう。
校歌を世に送り出した後、調子に乗った私は「できるかもしれない」という根拠のない自信をつけ、一発屋を脱したい思いで、隣の君津市の「きみぴょん音頭」の作詞作曲者募集に応募した。
♪ きみぴょん きみぴょん きみぴょん音頭~ ♪
という歌いだしで、君津市名産のミツバツツジなどを歌詞に盛り込み、頑張って3番まで作ったのだが、見事に落選。
うちの家族だけは、その歌のメロディを覚えていて、いまだに歌ってくれるのが何とも切ない…。
・やはり、私は才能がないのかな。でも…
校歌を作曲したからといって、生活が一変するわけでもなく、今も子どもたちにピアノを教える日々が続いている。
レッスンでは、初心者の子どもでも弾きたい曲が弾けるように、必要な音を選び、アレンジする作業は好きで得意だ。
時々、発表会のゲストにプロのヴァイオリニストの方に来ていただいて、生徒さんや私が一緒に室内楽を体験する機会を作っている。
そのために何曲かアレンジした楽譜の一つがこちら。
結局、才能があるかないか、まったくわからないけれど、
音楽が好きだ、ということは、ずっと変わらない。
挫折も失敗も、新しいチャレンジのエネルギーになることは間違いない。
今となっては、創造への燃料を投下してくれた父には感謝している。
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