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自分はアーケードゲームのどこに惹かれていたか

 来年、小樽文学館で開催予定の『小樽・札幌ゲーセン物語』展。こちらと連動する形で制作したWiki『札幌・小樽のゲーセン情報リスト』。少しずつではあるが投稿が続いている。最近は閉店してしまったゲーセンの外観写真の投稿もいただいている。

 Wikiの制作ははじめて。過去のゲーセン情報リストというのもはじめて。それを文学館の企画展と連動させるというのもはじめてなので、どれくらいの投稿があって、どういう運営になるか予測がつかない状況で始めたが、幸い何とか管理できる範疇で運営できている。恒常的なデータベースという位置づけになるので、アクセス数と投稿数を増やすみたいなことは目指さなくていいのだろう。

 自分は90年代中期でゲーセンにはほとんど行かなくなるので、今回の取り組みは当時常連だったプレイヤーの皆さんの協力が不可欠。ありがたいことに多くの協力を仰ぐことができたのは素直に感謝。大半の人は当時ハイスコアラーだった人で、今でも腕前はそれほど劣っていない。そういった方々と話す中で、相対的にゲーマーとしての自分がより明確になってきた。

 自分はスコア稼ぎ目的でゲームをしていなかったことを改めて認識したことから始まって。そうだとして、では自分はゲームのどこに魅力を感じていたのか。

 最初にハマったのがゼビウス。スコアはほとんど意識していなかったけど、間違いなく「先を見たい」というのは強力なモチベーションだった。ゼビウスのキャッチコピーである「プレイするたびに謎が深まる」ところに魅力を感じていた。今振り返るとゼビウスはこの辺が絶妙で、空中キャラのテーブル次第では前半でけっこうな種類の敵キャラが出現する。当時のゲームの「文脈」からすると、だいだい敵キャラは出揃ったかなという認識になる。そんなところで中盤から、カピ、テラジ、ガルザカート、ブラグザカートといった新たな敵キャラが断続的に出現。ここにきて新型か!という認識をプレイヤーに与え、まだこの先に見知らぬ敵がいるのではという興味・関心に繋がる。エリア14という終盤でアンドアジェネシスが2回登場したりと、予想外の展開でプレイヤーに「この先が気になる」気持ちを植え付ける展開はお見事で、当時のわたしはそこにすっかり捉われてしまっていた。

 ドルアーガの塔でスタッフクレジットを伴ったエンディングが提示されたことで、エンディングに到達するということが自分の中でプレイする目的のひとつとして追加された。この頃になると家庭用ゲームもプレイし始めて、こちらでエンディングがあるゲームが増えてきたことも一因だろう。逆にエンディング後の2周目にはあまり関心が向かず、エンディング画面が見られたら満足だった。ファンタジーゾーンや沙羅曼蛇、グラディウスIIにハマっていたが、1周目のエンディングを見たら、よほど気が向かない限りは残機をつぶしてゲームオーバーにしていた。

 もうひとつ、自分がゲームに惹かれていた要素がグラフィック。80年代から90年代にかけて(さらにはそれ以降も)ゲームの映像表現は進化し続けた。間接的に人が関わりながらではあるが、コンピューターが表現する映像にアート的なものを感じていたのだと思う。特に体感ゲームの3D表現に魅力を感じていたから、スペースハリアー、アウトランシリーズ、パワードリフト、ラッドモビール、デイトナUSAといったゲームにハマっていたというのはある。自分がプレイしていないゲームでもギャラリーとして映像を楽しんでいたというのはある(ヘッダー画像のナイトストライカーもそのひとつ)。同様にサウンドにも魅力を感じていたが、ゲーセンの環境ではBGMをじっくり聴くわけにもいかないので、こちらはサントラで聴くことで補完していた。なのでプレイするモチベーションという意味では、ちょっと外れる要素かもしれない(ゼロではないが)。

 自分がゲームのどこを楽しんでいたのかというのは薄らぼんやり自覚していたのだと思うけれど、今回多くのプレイヤーの皆さんと接したことで、相対的にいろいろ見えてきて、こうして言語化できたのはなかなか面白い体験だった。そして人それぞれに固有の楽しみ方ができるのが、アーケードゲームを含めたビデオゲームの魅力だろう。

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