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個々のゲーマーとしての矜持

 マガジン『地方の文学館でテレビゲーム展を開催する』は、小樽文学館で来年開催予定のテレビゲーム展の広報的位置付けと考えている。そのため丁寧な文体をあえて使っているのだが、一方でもっと雑記的なラフな文章もあった方がいい、というか書きたい気がしたのでマガジンとは別にぽつぽつ書いてみたい。

 ゲーセン展の準備にあたって、現役のゲーマーの皆さんに会う機会が多い。そうなると相対的・客観的にゲーマーとしての自分と向き合う機会にもなって、ちょっと面白い体験に繋がっている。わたしもゲームを卒業せずに今でも現役で楽しんでいるのだが、基本一人で楽しむくちだったので、同じレベルのゲーマーと話す機会というのがずっとなかった。複数の人とゲームについて面と向かってガチトークをするというのは、もしかしたらはじめてかもしれない。あまりゲームを知らない人に気を使いながら話すことが多かったので、コアなガチトークはけっこうな解放感を得る機会にもなっている。

 ゲーマーの皆さんとの話は共感する部分が多いのはもちろんだが、一方でテレビゲームも40年の歴史を重ねていてどう関わってきたかがガチゲーマー間でもそれぞれなので、異なる部分も相応に多い。話をしているとその異なっている部分に蓋をして共感できるところだけで話すよりも、その違いをさらけ出したうえで話すことが問われている感じがする。実際にそうやって話そうと言われたわけではないが、ゲームに関して自分が大事にしている部分をベースに皆さん話されるので、必然的にそうなるということなんだろう。

 直近の展覧会がゲーセンをテーマにしているので、皆さんと話す中でアーケードゲーマーという立ち位置が問われることが多い。ただ、わたしはアーケードゲーム攻略のためゲーセンに通い詰めるというのが、1997年のGダライアスが最後で、そこから先はちょっと覗いてなんとなく何かを遊ぶという感じ。そしてレトロコーナーで昔のゲームを懐かしむという現代に至る。要は90年代終盤からは家庭用ゲームに完全にウェイトをシフトしたということ。最近お会いするゲーマーの皆さんはゲーセンが無くなりつつあるとはいえ、アーケードアーカイブスなどで配信されたレトロアーケードを今でも楽しんでいる方が多いので、そういう意味で現役度が高い。そのため皆さんと話していて、新鮮な面白さがある一方で、熱量の違いによる戸惑いもあるというのが正直なところだったりする。

 それでも97年までは自分もそれなりの熱量を持ってゲーセンに接していたのは事実。わたしもアーケードアーカイブスやSEGA AGESで当時好きだったゲームをダウンロードして楽しんでいる。しかしガチでプレイするのではなく途中セーブや巻き戻しを駆使した気楽に追体験する感じで遊んでいた(もちろんこれはこれで良い)。ただ当時の熱量が消えてしまったのかどうかを確認するため、ここ最近は途中セーブを使わずガチなプレイを少し試みている。その結果、コンティニュー無しでクリアできたものがいくつかあり、きちんとプレイしたいという欲求が残っていたことが分かった。しかし、それが今後ゲームを楽しむうえでのメインのスタンスにはならないことも分かった(もちろんこれはこれで良い)。ゲーセン展を準備するにあたって、アーケードゲーム攻略に対する自分固有の熱量はベースとして必要なので、それを思い出せたのは良かったと思う。そして途中セーブしながら気楽に追体験することも変わらないだろう。

※以下、熱量を思い出すためにプレイした記録をいくつか

 ゲーセン展は、文字通りゲーセンと、そしてアーケードゲームとその関連アイテムについての展示になる。ただ個々のゲーマーの矜持みたいなものに触れるものにもなるかもしれない。それは必然的に「人」としてのプレイヤーにもフォーカスされるということで、ここが上手く提示できれば面白さがより増す内容になるかもしれない。

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