
【日記】軽さ
一日の間隙を縫って、日記や創作、自分語りなど、文章を書き綴るに際し、僕は余りにも物事を知らなさ過ぎると悲嘆する事が多くなった。
ここで言う物事とは、人生経験の豊富さであったり、他人の心の機微に聡い事であったりという事では無く、日常生活で視界に入ってくる風景や人の仕草、常に起こっている何かしらの事象の事である。
それらを文章で描写しようとした時に、目に映るそれこれは一体何という名前が付いているのか、目に映るその色は一体何という色なのか、目の前で起こっているこの事象は何なのかという様な、多くの事を僕は知らないため、より如実にそれらを描写しようにも、当て嵌める言葉が出て来ないのである。
例をいくつか挙げると、高知県にある中堅国立大学の、そこを通る人の多さに対して、酷く狭い南門を抜けた先、昨今の社会情勢によって、敷地内を追い出された愛煙家達が、講義の合間に毒煙を燻らす場所に、複数個設置されている工事現場で良く目にする柵のような物。あれの名前を読者諸賢は知っているだろうか。恐らく多くの人々はその名を知らぬだろうし、余程酔狂な人で無ければ知ろうとも思うまい。ちなみにあれはA型バリケードと云うらしい。
又は、海や空を描写しようとする際に、どうしても必要となってくる青という色。この青にも色々の種類があり、青、蒼、碧、または藍色など、枚挙に遑がない。
或は、曇り空が晴れ行く時、どんよりとしていた分厚い雲の隙間から差し込む一筋の斜陽。あの事象にも、薄明光線、光芒、旧約聖書に由来して、天使の梯子、或はヤコブの梯子などと、幾つもの呼び名がある。旧約聖書の中で天使の梯子は、地上から天国に通じる梯子であるとされ、そこでは幾人もの天使達が天国と地上を行き来していたという。
こういった知識を持っていれば、文章などというものは如何様にでも書けるが、悲しきかな、僕は二十一年と数ヶ月の矮小な人生を通して、脳味噌に詰め込まれているものが、頭と腸を取られた手のひらほどの大きさの瘡魚の可食部の如くであり、今この駄文を推敲している時でも、様々の事を調べるために、インターネットを手放せない。
数え切れないほどに言葉が溢れるインターネットという大海原で、僕は森羅万象様々の事を調べる事が出来るため、自身が執心している駄文を書き連ねる事も大層捗っている。しかしふと、昔の文豪と称される人々に限らず、様々の物を書いていた人々の、紙の辞典しか無かった時代に、多くの名作であったり駄作だったりを書き綴っていた苦労を考えると、僕の文章を書くという行為と、彼らの文章を書くという行為の質量は圧倒的に差があると痛感する。
僕の書き連ねる文章は、言葉を探す為、辞書を一頁一頁捲るという、先人達が己が指を駆使して繰り返していた、言葉に出逢う為の儀式ともいえる作業を、検索エンジンによって肩代わりしてもらうという怠惰に甘んじている為、何処か「軽い」と言わざるを得ないのである。
「軽い」文章に含まれる言葉もまた、「軽い」といえる。
人間は何かしらの光景や事象、経験から何かを学ぶ際、言葉を介して脳裏に刻み込む。裏を返せば、僕の普段書いている駄文は、自身に刻まれた、実際の経験や見識に依らない、画面越しの魂を持たない空虚な海から釣り上げられた、「軽い」言葉が表出されたものである。
僕の書く文章の全てが、僕という人間性の薄っぺらさや軽さを物語っているのである。