懸命に頑張ってさえいれば
脳性小児麻痺という障がいあるいは病気を持って生まれた私には手足に軽い麻痺と言語障がいがありました。市の教育委員会や学校への母の必死の説得もあり、小学校と中学校は普通の学校の普通のクラスに通学することが出来ました。
中学三年の担任の先生の紹介で、最寄り駅から二つ目の駅にある私立高校に入学することが出来ました。
手足に麻痺があったために大変だった事といえば、現代国語で天声人語などの新聞一面のコラム欄を毎日書き写すという課題が出たことです。友達は二、三十分もあれば終わってしまうと言うのですが、字を書くことが遅いわたしの場合は三時間弱かかりました。学校から帰宅して、すぐ書き始めて午後の八時ごろまでかかったと記憶しています。高校では数学と物理に興味を持ったので、理系の大学を目指すことにしました。三年生の三学期それも二月の終わり頃、浪人することも覚悟していたのですが、最後に受験した大学に合格することができました。新設校だということもあって、運も良かったのだと思います。ただ、通学時間が乗り換え時間を含めて二時間半もかかり、足の悪い私にとっては少し大変でした。
最寄り駅からバスに揺られて約25分。新築の家が建ち並ぶニュータウンを抜けると小高い丘陵が見えてきます。その丘陵の坂道を登ったところに私たちの学校がありました。身動きができない満員のスクールバスの中でも、新緑に包まれた車窓からの風景が新鮮でした。
数学と物理とコンピューター・サイエンスを主軸においた学科に入ったわたしは解析学を中心に勉強しました。
大学では「輪講」という講義がありました。私たちのグループは名著と呼ばれている解析学の本を節ごとに勉強してきて順番に一人ずつ発表するという授業でした。
初めて順番が回ってきた時は緊張しました。黒板に書く字も下手だったし、何より言語障害がありましたから、発表する内容を皆さんが理解してくれるのか?不安で一杯でした。
とにかく無我夢中で懸命に発表しました。本当にミミズが踊っている様な字で普通の人の時間の2倍3倍以上も掛かって。チョークの粉が汗と交わって、ジェル状になっていくのがわかりました。それでも「説明が丁寧で解かりやすかった」と褒めてくれた友達もいて、とても嬉しかったことを覚えています。
この時
時間が掛かっても、格好が悪くても懸命に頑張ってさえいれば理解してくれる人が必ずいる。
と確信に、自信に似たようなものを持てた気がしています。
その後、解析学に興味を持ち一時は数学の研究者になりたいと志したこともありましたが卒業間近になった頃、担当教授から研究者になることは難しいと悟られ、就職活動もろくにしていなかった私は、その教授の紹介で測定器の製造メーカーに入ることが出来ました。
測定器の製造メーカーに入り、測定器の内蔵コントローラーのプログラムを開発する仕事に携わりました。理解ある上司とチームの方々に支えてもらいながら(怪我をして通勤できなくなるまで)27年間勤続することができました。退社後はリハビリをしながらホームページの作成の勉強をしていました。現在はグループホームに転居し、就労支援施設に通所しながら、「車いすに乗って泊まりたいバリアフリーの宿」というブログを書いています。
60歳を越えて年齢を重ねるに連れて、ブログを書くことが生きがいになってきた様に感じています。いまでは、このブログをご覧になられた方が安心して車いすに乗ってバリアフリーのホテルや旅館に泊まり楽しんでくださることを勝手に思い描きながら、ブログを書いています。障がいをお持ちの方や車いすで生活している方に残せることは少ないと思いますが、ブログを通じて発信することを続けていきたいと思っています。
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