見出し画像

障がいが有るとか無いとか関係なかった

 脳性小児麻痺という障がいあるいは病気を持って生まれた私には手足に軽い麻痺と言語障がいがありました。市の教育委員会や学校への母の必死の説得もあり、小学校と中学校は普通の学校の普通のクラスに通学することが出来ました。
 中学三年の担任の先生の紹介で、最寄り駅から二つ目の駅にある私立高校に入学することが出来ました。
 高校では数学と物理に興味を持ったので、理系の大学を目指すことにしました。三年生の三学期それも二月の終わり頃、浪人することも覚悟していたのですが、最後に受験した大学に合格することができました。新設校だということもあって、運も良かったのだと思います。
 学生時代は友達にも恵まれ充実した4年間を過ごすことができました。解析学に興味を持ち一時は数学の研究者になりたいと志したこともありましたが卒業間近になった頃、担当教授から研究者になることは難しいと悟られ、就職活動もろくにしていなかった私は、その教授の紹介で測定器の製造メーカーに入ることができました。

 伊豆踊り子号が下を通る歩道橋を渡ると、中小の会社が建ち並ぶ街並みに様変わりをします。その街並みの中ほどにある4階建ての白い建物が、わたしの勤めていた測定器の製造メーカーでした。
 私が入社した時期はアナログからデジタルに移行する時期で、マイクロコンピュータにより測定器を制御することが当面の課題でした。私のチームに課せられた仕事は測定器を制御するプログラムを作成する事でした。測定したデータを物理量に変換し、表示・印刷・(パソコンなどとの)通信を制御するプログラムを作成しました。
 手に麻痺があったのでプログラムのコーディングには多少時間が掛かりましたが、アルゴリズムを考える事に時間を費やしたので手の麻痺は、それ程は気になりませんでした。
 何よりチームのリーダーの方やチームの方々が、受け入れてくれた事を今でも感謝しています。わたしの言葉が分からなかった時は、何度でも聞き直してくれたり、細かな配線などはチームの方々がサポートしてくれました。

「高機能の測定器を作りたい」「ユーザーが使い易い測定器を作りたい」というチームの思いの中には、障がいが有るとか無いとか関係ありませんでした。

ただ「いい製品を作りたい」そんなチームの中で仕事ができたことを幸せなことだと思っています。
 周りの皆さんに助けられながら27年間、勤続できた事を本当に感謝しています。

 退社後はホームページの作成の勉強をしていました。現在はグループホームに転居し、就労支援施設に通所しながら、「車いすに乗って泊まりたいバリアフリーの宿」というブログを書いています。

車いすに乗って泊まりたいバリアフリーの宿


 60歳を越えて年齢を重ねるに連れて、ブログを書くことが生きがいになってきた様に感じています。いまでは、このブログをご覧になられた方が安心して車いすに乗ってバリアフリーのホテルや旅館に泊まり楽しんでくださることを勝手に思い描きながら、ブログを書いています。障がいをお持ちの方や車いすで生活している方に残せることは少ないと思いますが、ブログを通じて発信することを続けていきたいと思っています。




いいなと思ったら応援しよう!