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雅楽の海外使節団に参加
第15話
弘が春日大社に移ってから熱心に打ち込んできた雅楽は、日本の古典音楽として1400年以上の歴史を持っています。
雅楽は、飛鳥時代に仏教と共に伝わり、平安時代の初期にかけて中国大陸や朝鮮半島から伝えられた音楽や舞が、日本独自の様式に整えられたもので、奈良・平安時代には宮廷をはじめ、寺院や神社でも盛んに演奏されるようになりました。
明治時代に「宮内庁式部職楽部」が創設されて以来、雅楽は公式に伝承され、今日では世界の古典音楽の一つとして海外でも高く評価されています。
弘が昭和天皇の御前で披露した「和舞」(やまとまい)も、雅楽の一種として伝承されており、即位式や鎮魂祭、神社の神事などで奉納されています。
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筆者が中東宮司の伝記執筆に際して彼の資質や特性を占ったところ、鋭敏な感受性と芸術的・宗教的な天分に恵まれ、天性の能力を十分に発揮する運命にあることが示されました。その占いのとおり、彼はたゆまぬ稽古を積み重ね、その卓越した才能が狂言や雅楽の上達にも反映されていきました。
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その実力によって雅楽の海外使節団の一員に選ばれるという幸運を手にすることになったのです。
弘が権禰宜に昇格し、初めて雅楽の海外公演に参加したのは、1975年(昭和50年)10月8日から14日までのフィリピン遠征でした。主催は日本の外務省とフィリピン政府で、目的は両国の文化交流を深めることにありました。
日本とフィリピンの貿易や投資が活発化する中、現地の雇用創出や技術移転も進んでいた時期でしたが、計20名の演奏者が派遣されました。
公演が行われたのはマニラのフィリピン大統領官邸「マラカニアン宮殿」。両国の国歌演奏に続いて、伝統的な雅楽の演奏と舞楽が披露されました。
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公演の中心には「越天楽」や「蘭陵王」などの代表的な曲目があり、弘も著名な演奏家に交じって、笙(しょう)の演奏を担当しました。
晴れの大舞台で、彼の手は緊張で震えたものの、演奏は大成功を収め、フィリピンの観客からも高く評価されました。この公演は、両国の文化交流の一環として、意義深いものとなりました。
二度目の海外遠征は、6年後の1981年(昭和56年)11月、法隆寺が主催した「雅楽訪中団」でした。
この遠征には、法隆寺の僧侶や関係者、日本の雅楽界を代表する演奏者など、総勢約40名が参加し、古代の音楽文化を共有し、日中の友好関係を強化することを目的としていました。
訪中団が行った雅楽演奏は、日本の音楽文化が古代アジアの影響を受けながら独自に発展した姿を示し、中国側も強い関心を寄せたといわれています。
この訪中は、雅楽の国際的な普及に寄与し、後の日中の音楽交流の基盤の一つとなりました。
一行は中国各地で公演が行ったほか、中国の伝統音楽との交流も行われ、日中の音楽家が互いに交流し、共演する場面も見られました。
この訪中の主要な目的は、西安にある玄奘三蔵の供養塔「大雁塔」での演奏でした。
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西安(旧・長安)はシルクロードの起点であり、古代より多様な文化が交差する地です。奈良時代の日本は中国文化、特に長安から伝わった仏教や建築、音楽の影響を大きく受けてきました。
なかでも大雁塔は「西遊記」でも馴染みのある、唐の僧・玄奘三蔵が仏教経典を持ち帰った地であり、日中の宗教・文化交流の象徴的な場所とされています。
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このように、大雁塔での雅楽演奏には「文化の源流への敬意」を示す意義が込められていましたが、訪中団の演奏は、古代から続く日中間の交流と歴史を称える意味を持っていたのです。
この遠征には、訪中団にとって忘れられないハプニングが発生しました。
-to be continued-