見出し画像

迷いだの悟りだのということは知らん。ましてや名声だの利欲などは問題ではない。すでに夜となり雨が降っているが私はこうして二本の脚をゆったり伸ばして満ち足りている。


       良寛

 この良寛の言葉は、彼の人生哲学や仏教的な悟りの一面を深く映し出しています。良寛は、俗世的な名声や富、功名を求めることなく、また仏教における「悟り」や「迷い」といった精神的な問いにも執着せず、自然なままに生きる道を選びました。


 良寛(1758-1831)は、越後国(現在の新潟県)に生まれました。家は裕福な家柄でしたが、若くして仏門に入り、禅僧としての道を歩みました。

 しかし、彼の禅僧としての修行は、一般的な厳しい修行生活とは異なり、山中に隠棲しながらも、常に自然の中での自由な暮らしを大切にしていました。また、彼の詩や和歌からもわかるように、子どもたちと遊んだり、村人との交流を楽しむ姿が多く描かれています。

 彼の生涯は、名利にとらわれない質素な暮らしの中で、深い精神的な充足感を追求するものでした。この言葉が生まれた背景には、そうした「何も求めない」自由な精神が根底にあります。

 仏教では、「迷い」とは煩悩や執着によって生じる苦しみの状態を指し、「悟り」はその苦しみから解脱し、真理を知ることを意味します。多くの禅僧や修行者にとって、この「悟り」を求めることが生涯の目標であり、それに向かって厳しい修行を行います。

しかし、良寛はこの「悟り」に対しても執着しない姿勢を見せました。彼は、悟りそのものを目指すのではなく、むしろ「ありのままに生きる」ことを大切にしていました。

 良寛の思想において、「迷い」や「悟り」は特別なものではなく、自然の中で心安らかに生きることが最も重要だったのです。

 良寛にとって、悟りとは何か特別な状態ではなく、ただ自然に生きること、その瞬間瞬間を受け入れることだったのです。

「ましてや名声だの利欲などは問題ではない」という部分は、世俗的な成功や評価を一切気にしない、彼の人生観をよく表しています。

 江戸時代の社会では、僧侶であっても寺院の維持や名声を求めることが一般的でしたが、良寛はそのような社会的な成功や評価にまったく興味を示しませんでした。

「夜となり雨が降っているが…」という一節は、仏教における「無常」を受け入れ、変化する世界の中でも心の中に安定した平穏を持つことができるという意味合いが含まれています。

 良寛は、外部の状況がどうであれ、心の中の充足感や満足を大切にしていたのです。

良寛のこの言葉は、現代においても、忙しさや外的な評価に左右されがちな私たちに、心の平安と自己充足の重要性を教えてくれる深いメッセージを持っています。

#良寛 #煩悩 #執着 #悟り  #無常

いいなと思ったら応援しよう!