ブックカバーチャレンジ失敗
表紙だけのブックカバーチャレンジって、なんか違和感があった。そんなnote。
雑に感じたこと
コロナの自粛期間中の読書の啓発活動、的な側面は魅力的だと思う。
七日間、毎日、一日に一冊、っていう制約の中でオススメの本を紹介し続けるっていうのは、確かに「チャレンジ」だと思う。
でもなんか、変な感じがした。
他人にオススメするのに、本の内容や感想を書かずに表紙だけってどうなんだろう。なんか違う。何だかわかんないけど、色々考えてるとやる気がなくなってきた。どうしよう。
そんなこと考えてたら二日目からのチャレンジは失敗しちゃいました。
色々考えてた内容を中途半端に終わらせてるのも気持ち悪いので、オススメの本を紹介して供養します。
初日に投稿した一冊目はこちら。
鳥類学者の本。めっちゃ楽しい。面白だけじゃなくて楽しい本。おすすめ。
・kWh=¥ / 村上敦
人口の減少が注目されることの多い地方の問題において、その対抗策として、エネルギーに関連する事業を通して地域内経済を豊かにしていく、みたいな本。ドイツでの取り組みを紹介しながら、日本での可能性をいっぱい書いてある感じ。
ただ、日本の現状は、エネルギー(主に電気と熱)はほとんどを地域外とか国外に頼ってて、その大規模集中型の社会システムを東京電力とかの大企業が握っててなかなか状況が打開できない感じ。悪い言い方で表現すれば、既得権益を死守するクソジジイどもによる腐りきった金権政治な状況と、思考停止して現状維持しかやることがなくて未来を志向することも展望を持つもこもない国民がいっぱいいるの中で、「トップダウン的な状況で、どうやってボトムアップしていくのか」、っていう課題を明確にしてくれた本の一つ。
他にもお世話になったことが二つある。
一つは、ビジネスコンテストで優勝したアイディアのもとになった。古い家電と新しい家電って大体10年くらいで省エネ性能が倍くらいになる、みたいな内容を参考にして、環境ビジネスコンテストでマテリアルリサイクルの課題提供企業と一緒になってビジネスプランを考えたら優勝した。賞金もいただいた。
もう一つは、就職に繋がりました。著者が代表をしているクラブヴォーバンっていう団体に出入りしてて、そこのメンバーの人が新卒を募集してるという紹介をいただいたので、無事に就職できた。辞めたけど。
・あるノルウェーの大工の日記 / オーレ・トシュテンセン
(監訳:牧尾晴喜 翻訳:中村冬美、リセ・スコウ)
内容は題名のそのまんま。ノルウェーで工務店を営んでいる大工の日記。とあるお客さんの屋根裏をリフォームして新しく部屋を作るっていう工事の日記。工務店の仕事がそのまんま描かれていて、リフォームの専門的で具体的な内容もあるけど、建築の知識が全くなくても色々と興味が湧くような書き方がされていて、読んでいてすごく楽しい。面白いだけじゃなくて楽しい内容。
綺麗事だけじゃなくて、手に職を持っている人のある意味で泥臭い話がめっちゃ面白いし、参考になることもたくさんあるし、もっと知りたいってなる。こういう職人が持ってて、広く一般的な理論にもなっていないような経験知って、往々にして無駄が省かれて本質を捉えているようなことが多いようなイメージがあるから、もっともっと大事にしていきたい感ある。
引用したいセリフがいっぱいある。
“私にとって、理論や理屈の部分は、完成した仕事のイメージを描くための素材である。ネジ、くぎ、各材料のリニアメーター(長さの単位)を数え、作業時間を計算する。どうやって仕事を進めるのか、頭の中で一本の映画を流してみるのだ。施工図がその台本だ。施主にとって一番の関心事はもちろん職人が完成を宣言した時の実物だが、ある意味では、彼らには台本よりも書類上の文章の方が分かり易い。ひとたび改築作業が完成したら、みんな設計図や仕様書のことなど忘れてしまう。もはや無用の長物だからだ。だが、元の屋根裏と完成したロフトをつなぐ架け橋になるのはこうしたものだ。”(P.14〜P.15)
大抵の人にとっては過程などあまり関心がなくて、完成した(する)モノが注目される。だけど、その1と0の間には間違いなく0.5があるし、0.0…1から0.9…9までの過程を誰かがやっているはずだし、その過程が完成したモノを支えてる。その『架け橋』を大事にしたい。
“誰かと作業をしていて相手のことが一番よくわかるのは、一緒に重荷を運ぶ瞬間だ。それも文字通り重い荷物を。それぞれ端を持って物を持ち上げ、相手の動きを感じるというのは、他にも比べようのない特別な体験だ。運び方は上手かどうか、私に配慮しているのか、それもと自分のことした考えていないのか。そういったことがすべて伝わってくる。足取りが乱れてきたら、それは相手が疲れているということだ。また、疲れは沈黙によっても表れる。”(P.126)
諸手を挙げて同意する。付け加えるとしたら、相手の姿勢とかうめき声とか、物の形にもよるけど重心の位置や掴む位置を気にしているかどうか、後ろ向きに進んでもらってる人の足元とか、無理して重い物や無理な姿勢を我慢している人の性格とか、等々、重い物を一緒に運ぶだけで相手のことがめっちゃわかる。
(工事現場のルール化・効率化の話の流れで)“合理化は人々の心に不寛容をもたらし、ルールや権力によって圧迫を生む。その結果、皆が70%の能力では足りず100%の能力を発揮することを求められ、労働市場から多くの人がこぼれ落ちていく。個人の能力は千差万別なのだが、それがほとんど認められない社会へと変化してきている。”(P.58)
“組織が重要視されるようになり、個人の責任は曖昧になっている。これがお役所仕事がはびこる要因かもしれない。協力し合う習慣が消え、別の管理体制がそれに取って代わる。それも書類を通した間接的なコントロールだ。(中略)一見責任の所在が明確になっているかのような制度だが、実際には誰も責任を負わない。”(P.90)
会社員の時に感じてた、資本主義的な考え方による様々な弊害を、建築の分野で端的に解説してる文章だと思う。日本の下請け構造も「人工」っていう捉え方も、、、いや、もう、色々と言葉に表現しきれないけどいっつも感じてることが書いてある。
千差万別な個人の能力の全てが認められる社会にしたいですね。
・民主主義 / 文部省
戦後まもない頃の文部省(今の文科省)が書いた、中学高校向けの民主主義の教科書。日本国憲法で謳われている「民主主義」とは何なのか、どのような歴史があるのか、どのように実践して行けばいいのか、そして民主主義は何をもたらすのか、等々、戦後で中高生向けの本だからって侮れない内容だし、70年近く経った今でも十分に通用する内容が書かれている。例えば民主主義の方法の一つの「多数決」については、その批判的なことも書きながら、こんな風に書いてる。長いけど引用したい。
“豪華な列車を引いて時速百キロで走る現代の機関車になるまでには、無数の技師や職工の血のにじむような努力が積み重ねられている。その間には、何度失敗が繰り返されたかしれない。しかし、失敗は発明の母である。一度の失敗にこりて、改善の試みをやめたならば、人類の進歩は、とうの昔に止まってしまったに相違ない。
それと同じことが、政治についても言える。政治をやって、一度で完全に成功しようというのはあまりに虫のよい話である。人間社会の出来事は、蒸気や電気のような自然現象よりも、はるかに複雑である。だから、社会のことを取り扱う政治には、自然力を利用する技術よりも、ずっと失敗が多い。その失敗を生かして、だんだんとよい政治を築きあげていくことは、国民全体の責任である。みんなで自由に意見を語り、多数決で政治の方針を立て、やってみてぐあいの悪いところは、またみんなの相談で直す。それが民主主義である。”(P.122〜123)
民主政治には多数決に誤りがあることを最初から勘定に入れているという言う。それは愚衆政治や独裁政治ではない。多数決は、有権者による開かれた議論の積み重ねによって、民主主義を構成するのである。そして、次の章、「目覚めた有権者」の話が始まる、、。
この他にも、社会生活や経済生活、国際生活における民主主義、労働組合、婦人の権利、新憲法(日本国憲法)に現れる民主主義等々、民主主義が何なのか、大きなヒントになるんじゃないかな。
嫌いな言い方だけど、大人なら読んでおくべき本の一冊、かもしれない。
・中動態の世界 意思と責任の考古学 / 国分功一郎
「中動態」っていう、能動態でも受動態でもない、その中間とも言いにくいもう一つの態を、言語学の系譜を基にあぶり出す本。中動態を物騒な話で例えると、銃を突きつけられた少年がお金を手渡した時、その行動は能動的なのだろうか受動的なのだろうか、っていう、割とありがちなシチュエーションがある。
主体性を考える上で、特に権力との関係において、めちゃくちゃヒントがあるなって思った文章がいくつかある。
“能動態と受動態の対比において、「する」か「されるか」が問題になる。それに対して、能動態と中動態を対比する場合、主語が過程の外にあるのか内にあるのかが問題になる。”(P.88)
“権力の関係は、能動性と受動性の対立によってではなく、能動性と中動性の対立によって定義するのが正しい。すなわち、行為者が行為の座になっているか否かで定義するのである。”(P.151)
(権力と当事者の関係において)“複数人いる人間たちが、非自発的な仕方であれ、一致をつくり出すプロセスに参与できればよいからである。”(P.160)
日本語でも英語でもラテン語でも、動作を表現するのは「する」という能動性か「される」という受動性でしか表現することができないが、ある行為者がその行為の中心であるかどうか、別の言い方をすれば、ある行為がその行為者から始まりその行為者で完結するのかどうかが、中動態を理解するための一つの視点になる。そうすると次に問題になるのが、行為者における意思と責任になるんだけど、それは本書にて。
こういう言語学的視点から、現代で多く使われている言語の限界と、かつて使われていた言語や他の言語(例えばギリシャ語やサンスクリット語等)から、「する」「される」だけでは正確に表現することのできない状況(例えば前述の銃を突きつけられた少年の行動など)をあぶり出す本。
だからこそ、『言語が思考を規定するのではない。言語は思考の可能性を規定する。つまり、人が考えうることは言語に影響されるということだ。これをやや哲学っぽく定式化するならば、言語は思考の可能性の条件であると言えよう。』(P.111)って言える。なんかかっこいい。
この本には、ある物事の限界と次なる可能性を示唆する、“科学”の真髄がある気がする(知らんけど)。
でもぶっちゃけ、言語学なんてさっぱりわかんないんですよ。でも、「あぶり出す」っていう表現がぴったりなんです。国分さんの文章力で、めちゃくちゃ難しい内容なのにスラスラ読める。睡眠導入本にいいかもしれないし、イライラしてて頭がごちゃごちゃしてる時に読んだら、ごちゃごちゃ感が振り切れて逆にスッキリするんかもしれない本だと思う。
最近、毎日のように聞く言葉だけどその実態はよくわからない「主体性」っていう何かを考える上で、すごく参考になる本だなって思った。読書会したい。
・環境社会学の理論と実践 生活環境主義の立場から / 鳥越皓之
「環境社会学」とは、人間を取り巻く自然的、物理的、科学的環境と人間集団や人間社会の諸々の相互関係に関する研究を行う学問領域、と定義されていて、特に、経済活動による環境への悪影響を直接的に被る当該地域の住民の社会的な問題をどのように解決するのか、ということが学問的な始まりである。(定義は環境社会学会HPより)
NYMBY(Not in My BackYard)とか言われるものごととかも、環境社会学の射程の一つ。
その中でもこの本は、生活環境主義っていう、その地域の住んでいる人の生活を第一に捉えた考え方による本。
きっとこの分野におけるバイブル的な本なんだろうな。アマゾンでめっちゃ高い。
修論の時に先生の勧められた本の一冊で、修論の内容でも個人的にもめちゃくちゃ参考になった。修論の時に引用させていただいた内容を、ざっくりと書いてみる。
“環境社会学での諸課題には以下のような実態が挙げられる。例えば、一般的な開発行為の多くは都市的開発を志向する近代化論を背景としたものが多く、歴史的には地域との間で公害などの環境問題を引き起こしてきた。また、デベロッパーによる開発行為の他に、行政の総合計画や都市計画においても、合理性の強調と住民意識の捨象といった課題が挙げられる。このような、デベロッパーや行政の行為に対して、当該住民が意思決定権を持つことが重要である鳥越は主張している。住民が自らの居住する地域に対して意思決定権を持つことは当たり前であると考えられるが、そのことの根拠として、生存権を根底として「占有の論拠」と、階級間の問題における「使用の権限」を挙げている。”
占有の論拠と使用の権限を書こうとするとめちゃくちゃ長くなるので本書にて。高いけど。
たぶんこの本は、都市と地方、大企業と地域住民っていう、新自由主義的な競争・格差の中で搾取されている実態に対して、まさに「生活環境」の立場から抗おうと、正義を突きつけようとした本なのかなって感じた。
お金だけではない、人一人の個人としての生活から出発してるのかなって感じた。大事だと思う。
本で舟を作って社会を渡る
『舟を編む』っていう小説に出てくる「大渡海」っていう辞書のネーミング——辞書は言葉の海を渡る舟、みたいな、本は社会の海を渡る舟、みたいな。こんなことを、ブックカバーチャレンジの期間中に、おすすめしよう思う本を考えている時に思った。
その社会、時には荒波を渡っていく方法は、政治でも経済でも経営でも社会運動でも良いんだろうと思う。でも、もっと大事なことがあるよね、みたいなところが、どんな本でどんな舟を作っていくのか、みたいな、理念とか信念って呼ばれるものなのかな。
それと、「大工の日記」にあったように、理論や理屈の部分は、完成した仕事のイメージを描くための素材である、みたいな、あくまで海を渡ることが目的で、本による理論や理屈は舟の素材である、みたいな。
これからも、「持続可能な社会って何なんだろう」、「主体性って何なんだろう」、みたいな目的地のために素材集めをしていきたい。
なんかうまく表現できないのも、「中動態の世界」で描かれている通り、言語は思考の可能性の条件である、みたいな、語彙力が無いせいで思考の言語化ができてない、みたいな。
なんか詩的な表現になっちゃいました。