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「本質」ってよくわかんないし、なんか胡散臭い。けど、「掴み方」はある気がする。

 いわゆる「主流派」と「非主流派」の論争/議論って、なかなか難しい話だなと思うnote。

その論争の大抵は、どちらが本質を捉えているのか、ってことな気がする。そうした中で、ある個人が頑張って本質を追求しようとする、その感覚的な掴み方って、院の時の小林先生から教わった気がする。

違った社会関係資本

 具体的に思いだせるエピソードとしては、修論執筆の時の「社会関係資本」を書き出しの時 — 俺が原稿の中で『ロバートパットナムによって提唱されてきた社会関係資本(ソーシャルキャピタル)が 云々…』って書き出したら怒られたことがある。

 社会の中で広く周知されているように思う社会関係資本って、ロバートパットナムが提唱している「信頼」「規範」「ネットワーク」で括られていることが多くて、その3つから参照されることが多い。当時の俺なりに色々な文献を読んで捉えようとした社会関係資本の理論だったし、その頃の"科学”とか“哲学”的なものに対する考え方も、いかに引用数が多いか、いかに文面上での議論が活発であるかが重要、みたいに捉えてたから、数多く引用されているこの捉え方が主流であり、正しいことだと思ってた。
 だからその原稿の中でも、正しいと思っていたロバートパットナムの社会関係資本論に沿った文章を書いてたんだけど、見事に出鼻をくじかれてしまった。

「あれ、何が違かったのだろ」

 ロバートパットナムの描いた社会関係資本 —「孤独なボウリング」「哲学する民主主義」って、あえて言語化すれば、国外の個別具体例から「類推」された理論である、っていう認識が必要なのかなって思う。もちろん、その個別具体例は数多いし、類推の仕方もプロなんだと思う。だからこそ多くの引用がされているし、多くの人が納得してるんだと思う。
 そうした中でも、小林先生が見て感じてきた日本の農村の姿って、多分違かったんだろうなって。

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ロバートパットナムの社会関係資本

 ロバートパットナムの社会関係資本は、人々の繋がり自体が社会的効用を生み出す、的な話だと記憶してる。その「繋がり」を具体的に表現したのが「信頼」「規範」「ネットワーク」であり、社会的効用を具体的に言えば、(特に地域コミュニティにおいて)防犯や見守り、子育て、生存確認、政治的議論の有無などが挙げられる。もっと噛み砕いて説明すれば、相手を信頼しているから、家に鍵をかけなくても大丈夫だと考えるし、自分の子供を預けられるし、対立的な話し合いになりかねない政治的議論ができる。暗黙の了解としての規範があるから、信頼が生まれるとも言えるかもしれない。ネットワークという小さくても確実な繋がりがあるから、お隣さんの健康状態などに気づくことができたりする。

 それらが結果として、行政サービスの代替効果を発揮し、社会的コストを低減させられるから、「社会関係資本は大事なんです!!」みたいになる。
 (そう考えると、社会的な側面から社会関係資本の増大・強化を訴えることと、行政的な側面から公助の縮小と自助・共助を推し進めようとするのって、方向性が一致するんだな)

 ロバートパットナム自身、社会関係資本の負の側面も言及してる。社会関係資本を維持するためには、個人に対して、コミュニティへの参加をある意味で強要させる場合があるし、同様に、個人の自由を抑圧し服従させる側面もある。社会関係資本を生み出す組織的連帯は、時として個人の自由を低下させる、というトレードオフの関係になる。

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日本の農村の人間関係

 この理論を日本の農村地域に当てはめることが、めちゃくちゃ多い。

 日本の農村は、特に現代都市との比較の上で、「原始的コミュニティの様相が強い」みたいに言われる。冠婚葬祭を地域ぐるみで実施したり、農業に必要な水路などを地域で共同管理したり、道路の保全は道普請として共同作業してた。こういう組織的連帯、地域的連帯から、上記で挙げたような社会関係資本の社会的効用が発揮されている、みたいに言われる。同時に負の側面もある。村八分の実態や、しきたりの強要、水路管理・道普請への半強制的な参加、不参加の場合の罰金などが特に多く挙げられる。

 そういうのが、まことしやかに言われてるし、こう書くと、誰かが提唱した理論を机上で議論したっぽくて、結構それっぽくなっちゃう。

 でも本当に、それだけで説明したことになっているのかな。
 そもそも社会関係資本が生じているであろうとされる範囲が、多分違う。ロバートパットナムは、非地域性の団体だったり、非自然環境的な繋がりの中での社会関係資本しか記述してなかった気がする。対して日本の農村地域って、根源的には自然環境に依拠していて、よく言われるのが川の流域とか、田んぼが作りやすかった地域とかに規定されていることが多い。そうした、そもそもの「社会」の対象が違うんだから、それを記述しようとするのに違和感が生じるのは当たり前だよねって思う。それに、水路の管理とか道普請とかで、実際に社会的コストが下がっていることは定量的に測れたとしても、その地域に十分な信頼関係や規範が旺盛されているのかどうかみたいなことって、誰がどうやって測るのだろうか。

 そもそも、社会的なコストと人間関係の程度との因果関係ってまだまだ研究途上だと思う。社会関係資本の測定の仕方とか横断的な比較方法とかは研究されてる最中。

 なんか、この社会関係資本の理論だけで“全て”を説明したようなのが多い、多すぎる気がする。

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万能ではないけど道具としての科学的理論

 吉田雅明は、物事の本質の捉え方、科学的な初歩の状態をこんなふうに書いている。『いわば混沌とした状況から研究対象の「本質」が固定される過程を主導する推論は、(中略)「演繹」でも「帰納」でもない。状況を矛盾なく説明する原理を思いつくプロセスは、それらと区別してアブダクションと呼ばれ、(後略)』
 いわゆる「主流派」と呼ばれる理論も、科学史的な観点に正直になれば、いくつかの個別具体例たちを矛盾なく説明できた理論であり、”その”理論を演繹的に発展させてきた”だけ”の理論である、ってことなのかなって思う。
 社会関係資本も、漢字で難しく書かれるとなんか遠い世界の物事に感じられるし、「信頼」「規範」「ネットワーク」みたいに括られると嫌悪感を抱くと思う。だけどその本質って、もっと身近だと思うし、(負の側面も含めて)誰もが感じているものだと思う。

 本質と呼ばれるものを胡散臭く感じるのって、「主流派」が訴えていることが実際の生活と乖離しているからなのかなって思う。でも、だからって「主流派」を否定するのはたぶん違くて、社会を説明できるかもしれない理論って現段階ではたくさんあって、色々な人が色々な立場で色々な個別具体例から色々なことを言っているということを俯瞰的に捉えながら、自分の感覚とかとのちょうどいい距離感とかを探りながらも、時にはそれに頼りながら現実をのぞいてみたり、現実との差異、他人との差異を分析してみたりすると、世の中がもうちょっと面白くなったりするんかな。
 「非主流派」も含めて、多様な目線を理解しようとしながら、自分たちが納得できる目線を試行錯誤していくことが必要なのかなって思う。

 いずれにしても、“理論”とか“科学”とか“学術”って、何も高尚なものではなくて、あくまで現実を説明するためだったり未来を展望するための「道具」であって、それらといかにうまく付き合っていくかが、主流派にも踊らされずに本質を掴む手助けになるのかなって思った。

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