治療が変更される時
がん治療のお話。個人的見解であり、独り言です。感情的で、非論理的な。
8月から開始した、パクリタキセルという抗がん剤を変更する提案を医師から受けた。
1月終わりに受けたCTで、びみょうに・すこーし・わずかに、腹膜に転移しているがんが増大しているらしい。尿の出を妨げつつあり、腎臓を守る意味でも薬を変えましょう、ということである。
CTより頻回に行っている血液検査ではまずまずの様子だっただけに、予想より早い変更にまだ頭の整理がつかない。
副作用のことを思う。パクリちゃんのことはある程度コントロール出来ていた。足の痺れは軽度に留まり、その他はおかげさまで自覚しない程度で済んでいた。
アントラサイクリン系、という次の薬は、どうなのだろう。心毒性あり、9サイクル以上は不可、1クールの期間を見ても、パクリちゃんよりきついような予感。
私にとって、心身にダメージを受けないこと=自分の生命力を保つことは、とても優先度の高いことだ。もしかしたら、がんと闘う以上に。
だからいつも、治療が次に移るときに、自分が納得できてから進むようにしている。結論は同じだとしても、心構えで苦痛の捉え方が違うから。
基本的に、先生を信頼している。他にもっと画期的な治療法があるのでは?と探すことはしない。
先生はプロで、とても頭の回転が速く、真摯に治療方法を模索し、負担にならないよう配慮し、家族のことも気にかけてくれる。治療をする限り、よろしくお願いするばかりだ。
しかし先生は、私ではない。
ちっぽけながら41年の生き方、ものの見方、大事にするものがある。私の人生だ。
だから面倒な患者であろうけれど、その場ですぐ了承できないこともある。
最高の治療が、最良の治療とは限らない。特に、進行している状況においては。
さらに言えば、治療法の問題ではないのだ。
それをすることで、何を得て何を失うのか。
可能性として、どのくらい効果が見込まれているのか、もしくはいないのか。
やる意味は、本当にあるのか。
私がそれを納得し、飲み込めて進めるかが、私にとって、ほんとうに重要なことなのだ。
医師は見通せている今後の流れを、患者はわからない。例えば「ゆっくり進むタイプのがん」と説明されているけれど、その「ゆっくり」とは具体的にどういうスピードのことなのか?
末っ子が間もなく4歳で、その子の成人した姿が見られたら、「ゆっくりながん」わたくし的認定バッジを差しあげよう。でも、調べればわかる、乳がんステージ4の5年生存率。その3割ちょいに入れたとして、そこからまだ11年!生きられるのは?
理不尽で、不条理だ。
私は今、怒っているのだろう。
文章を書きながら、八つ当たりしていることを自覚している。
すみません。
でも、治療が変わるたびに、今までの積み重ねは何だったのか?と思わずにいられない。
自分がただただ、痛めつけられているしかないことに、怒っている。
医師にではない、この状況に対して。
自分を痛めつけながらしか、がんを大人しくさせられないのだろうか。
治癒を目的とせず、維持を目的とする場合、もっと患者が気軽に、主体的に選べたら良いのに。例えば、ちょっと休みたい、とか、何かと併用しながら様子を見たい、とかさ。
いろいろな(エセ)健康情報を要らないのに浴びせられて、嫌な思いをした方もいるだろう。そのような方には不快な意見かもしれないが書く。
私は、そこまで強迫的に押しつけられたことがないからか、お気持ちだけ頂いている。
元々、東洋医学の分野にいたので、よくわかんないけど効いた、という経験があるから、生活が困窮するほど注ぎ込む危険がないくらいには冷静で、気持ち良さそうで、やってみたいと本人が心底思えるなら、西洋医学じゃなくてもエビデンス抜きでもやってみたら良い、と個人的には思っている。
それはさっき書いたことと矛盾するだろうか?納得してからしかやりたくない、ということと。
理屈じゃないのだ。
あ、でもこれは、私が発見時にすでにステージ4だったことに起因する。
もちろん、わざわざ治るものを治らなくする必要はないし、理屈で、エビデンスがきちんとある治療をして頂きたい。と、エクスクラメーションマークをたくさんつけておく。
私は最初から、どういう因果か、治癒は見込めないところからスタートしたので、ある意味では自由だと感じなくもない。きっと、早期発見の方がいろいろな面で、迷ったり悩んだりしたのではないかと想像する。もちろん、ステージの進んだ方でも私とは違う、それぞれの捉え方がある。
話を戻そう。
理屈ではない。直感で納得することだってある。ありませんか?ありますでしょ?
理屈で納得したいのではない。気持ちが整うかどうか。ひとつひとつ話を聞きながら消化していくことが、私の人生において、必要なのです。
自分を大切に扱うこと。
それが、病院での治療にとてもとても欠けている視点である。
そんな呑気なこと言ってられないよ、と、仰りたいであろう現場の方々のご苦労をいつも平伏する思いで見ているわけだが、患者の立場から言わせて頂くと、検査にしても、待ち時間にしても、治療にしても、辛く冷たくきつく疲れるし大変でしんどい。ほんとに。
温かいのは、ちょっとした気遣いのひと言だったり、何気ない立ち居振る舞いであったり。人に温かさをもらっている。
でも、自分で自分を大切に扱うように、病院というシステムは作られていないんじゃないかな。
治すためだから、痛くて当たり前。辛くても仕方ない。我慢してね。
本当にそうなのだろうか。
尊重されているという思いは、勇気を生む。
だから、少しだけ待ってほしい。出来うるならば、自分で考えさせてほしい。それが、私が私を大切に扱うということだから。
自分の人生を、自分で選んでいるという気概で治療に臨みたいのである。
いつかは自分で選べなくなる時がくるとしても。だからこそ。
心の動きの、記録として残します。
なんだかすみません。でも少し整理された。
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