「お母さん食堂」について
最近、コンビニチェーン店のファミリーマートが「お母さん食堂」というブランドで総菜を売っていて、それに対して「お母さん食堂」という名称だと性差別を固定化するというので、それを変えさせようと署名運動まで起きたという事があったようだ。
私からすると、ご飯を作るのも総菜等を調達するのも、男性であろうと女性であろうと、性役割がどうとか全くどうでもいい事で、そんなものは料理が出来る人間がやればいいだけの話だと考えている。世の中には嫁の飯が不味いという人が居るようだが、私には全く理解できない。だったら旦那が自分で飯を作れば良いだけの事であって、何も女性が料理をやらなければならないという決まりがある訳でも何でもないからだ。
例えば、「のだめカンタービレ」というマンガを知ってる人ならわかるだろうが、のだめちゃんは実はとってもピアノが上手い。でも彼女は料理は嫌いではないと思うけど、残念ながらあまり得意ではないようで、豚骨を使ったカレーを同じアパルトマンの住人に振る舞った結果、のだめ以外はみんな腹を壊して寝込んでしまったというエピソードがある。
こういう場合、無理にお腹を壊す料理を作って貰うのではなく、愛する千秋君にお握りをつくったり、ピアノを弾いて貰えば良いのだ。女性だからという理由で、ピアノを辞めたり、無理矢理、腹を壊す料理を作らされる必要はどこにもない。のだめちゃんには千秋君という恋人がいる。彼はシュトレーゼマンの唯一の弟子で若手指揮者でありながら、ブロッコリーで恋の魔法の呪文料理を作る事ができ、母方の親戚からさえも玄人はだしとまで評価される名シェフなのだから。
さて、フェミニストといわれる人々の見解としては「お母さん食堂」という名称そのものが、お母さん=家族にご飯を食べさせる人という性役割イデオロギーの押し付けなのだという事らしい。世の中には夫婦茶碗というのがあるが、あれも性差別なのだと、実際、フェミニストは真顔で主張している。その調子だとhumanもhistory も女性差別だと言い出しそうではある。
でも実を言えば、歴史的にはお母さんが家族の食事を作るというのは、必ずしも普遍的にそうであった訳ではなく、核家族化と専業主婦の誕生とパラレルな関係であったりするのではあるが。
所で、自分が幼い頃に食べさせてくれた味の思い出を持たない人って存在するのであろうか? そういう味を人々は「お袋の味」とか、ヨーロッパの場合だと「おばあちゃんの味」とかいうのではないのか?それを性役割の固定であり差別なんだと言われても、じゃあどう呼べばいいんだ?という話にしかならない。「お父さん食堂」とか名乗ったら、これは男性がご飯を作ってるから性役割の固定や差別じゃないとでも言うのか?
当然ながら人によったら思い出のご飯は「お父さんの味」なのかも知れないし、彼女なり彼氏なり、兎に角、性別を問わず、あなたの事をかけがえのない存在だと心を込めて作ってくれる人が作るご飯の味がある。それこそ、そういう郷愁や思い出を求める人々に、マザコンであるお前が子供の頃に母親が作ってくれた肉じゃがへの郷愁こそ女性への性差別を強化する装置なのだ、お母さん食堂なんて名称は差別だ無くせと声高に叫んでも、それを納得させ理解して貰えると、彼等は本気で考えているのであろうか?「お袋の味」を売りにする食堂でご飯を食べる人々を、果たしてミソジニー呼ばわり出来るのか?
寧ろ、殆どの人は自分が育ってきた思い出や郷愁に対してそんな無礼な事を言われたら、大いに抵抗するだろう。そして侮辱するなと怒りはしないだろうか? それ故に署名を集めても7000人位しか集まらなかった。当たり前の話だ。
フェミニズムだとか、ジェンダー論だとか、そういう事を知らない人間を見下し、斜め上からお前らの発言は差別だとか糾弾し断罪するって、そういうお前は一体何様なんだろうかと思う。
昔、カッパブックスから出版され、今は他の出版社から文庫でも出ている「セクシィギャルの大研究」という上野 千鶴子の処女作は、フェミニズム関係の本の中では、とても売れている部類の書籍だと思う。テレビ番組によく出てた田嶋 陽子 程には知名度はないだろうが。フェミニストが何を問題にしているのかを分かりやすく解説した大変に内容的に面白い本だと思うのだけど、多くの日本人は残念だが読んだことさえも無いであろう。少なくとも間違いなく「鬼滅の刃」よりは全く知られていない。
まず、フェミニストとそうでない人とでは、前提条件さえも共有が出来ていないという事をいまだに認識出来ていない女性解放運動って、本当に女性差別を無くす事に貢献できるのだろうか?
イリイチによると専業主婦という存在が産まれたのは産業革命以降の近代になってからなのだそうだけど、現在の日本においては、もはや専業主婦という存在さえも高嶺の花だと考える程、人々は労働力を切り売りする状況に追い込まれ、気が付いたら消費者としてさえも身ぐるみをすべて剥がされようとして居る。
所が、中には唖然とするのも居て、人間の価値は稼いだ金で決まるとか平気で抜かすのが居た。
https://mobile.twitter.com/i_tkst/status/1344562163264831490
お前らがそうやって考えている価値観で、お前らの同性の同胞がどれだけ苦しめられ、どれだけの不利益を蒙って居るのか少しは考えたらどうなのかと思う。女性解放を主張するなら、どうして女性の貧困に対して立ち上がらないんだ? 現状において、コロナウィルスの感染拡大という状況で、どれ程の女性が路頭に迷っているのか?
ご飯を食べるという毎日の生活においてとても大事な領域さえをも、産業社会によって侵食される事で更なる貧困の再生産を産んでいる。その事を彼等はどう考えているのだろうか?
ヴァナキュラーな領域を産業社会が今まで以上に侵食し、消費という産業社会に奉仕する仕組みに全面的に呑み込まれた時、どういう事態になるのであろうか? 家庭の御総菜をコンビニで購入してまで、人生の持ち時間を労働時間に奪われなければならない事の方が問題としては、極めて深刻なのではないのか?
性別を理由に誰かが誰かに毎日のご飯を作る事を強制する社会は明らかに間違っていると私も思う。しかし、今のような多くの人々からイチャモンとしか受け取られない運動では、女性の解放を実現する所か、女性解放運動の権利闘争でさえ、資本制における搾取の再生産に絡め取られ、結果として体制を補完する役割として機能してしまうのではないのか?
例えば、こういう事を想定してみよう。世の中が男女平等になったと仮定しよう。男女平等参画ということで、女性の労働力も動員させるべく、休む暇さえもなく朝から晩までずっと働かないと生きていけない状況であるとする。毎日の食事も一緒に楽しむ時間もなく、仮に子どもが産まれても育児は忙しいからベビーシッターに全部やらせて、教育も学校や塾に丸投げして、ろくに家族で話をする機会もなく、老いた親の介護なんか仕事で忙しいので出来ないから施設に入れるという暮らしが、そんなに素晴らしい社会だと言えるのか? それでもまだベビーシッターや介護をお金で買える立場だったらまだいい。しかし多くの女性も男性も、そういう暮らしさえも営めず孤独死するケースは今後も更に増えていく事であろう。私も8050問題の当事者なので、将来は確実に孤立死が約束されている。そういう現状に、果たしてお母さん食堂を槍玉に上げた人々はどう考えているのか?
実を言えば、お母さん食堂なんてのが商標として惣菜販売に使われている状況は、食の産業化がいよいよ完成したという事ではないのか? これはコンビニご飯がお袋の味という子ども達だらけになるという事だ。確実に言えるのは、生活の自律性を巨大な産業に完全に明け渡す事になるだろうという事は指摘できると思う。