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引き寄せをお伝えしたい理由(1)

リアです。
ゆるふわ引き寄せ研究所の活動を始めてから、もうすぐ一年が経とうとしています。おかげさまで、講座を受けてくださる方々の、うれしい変化の声も聴こえてくるようになりました。信じて(あるいは半信半疑で?笑)耳を傾け、行動に移してきてくださったおかげです。ありがとうございます。^^

今日は基本に立ち戻って、わたしがなぜ引き寄せの法則をお伝えしたいのかについて、書いてみたいと思います。

ライフイベントに振り回された日々

今でこそ「ラッキーな人」「なんだか軽やかに生きている人」のように思われがちなわたしですが、ここまで44年の人生のうち、前半はかなりの波乱万丈、ネガティブ満載でした…。

(ふだんはネガティブなことを言わないようにする習慣をつけているので、ここにこれを書くのも何か月も躊躇していました…。もしも読んであまりよくない気分になりそうでしたら、どうぞ読み飛ばしてくださいね。)

わたしは生まれつき背骨の一部が欠けていて、7歳ごろには側弯症と診断され、定期的に整形外科に通っていました。11歳ごろにはコルセットをつけることになり、苦しい、恥ずかしい、暗い時代を過ごしました。

10歳ごろには父親が突然心不全で亡くなってしまいました。医者嫌いの父は、強くなっていく心臓の痛みを隠しつづけ、誰にも病気だと知らせないまま逝ってしまったのです。
母は、そんな父のことを「(家族を遺して)無責任に死んでいった人」と何度も呼びました。何十年たったいまでも、父のことを語るとき、「死んだ人」と呼ぶのです。

12歳のころ一緒に住んでいた祖父が亡くなりました。遺産相続で、それまで仲の良かった叔父・叔母と母が対立し始めました。

そのころ、ふと周りの同級生を見て思いました。「こんなにいろいろなことが降りかかってきているのはわたし以外いないみたい。一体なぜなんだろう?」と…。

残された祖母と母も昔から折り合いが悪く、私はどちらの側につくことも許されないような雰囲気がありました。もう少し天真爛漫な子どもだったらよかったのかもしれませんが、受け体質なので、家の中の負のエネルギーを一手に引き受けてしまっていたのかもしれません。

いつもお葬式をしているようなどんよりとした空気で、声を出して笑ってはいけないような、笑顔も会話もほとんどないような家でした。でもそれが当たり前だった。

中学に上がるころには生気を失い、コルセットをつけるのもさぼるように。16歳のころ、脊柱側弯症が進んでしまい、ついに手術を受けることになりました。
2本の金属の棒をフックで背骨の両脇に固定して、曲がりを伸ばすというのです。手術の説明を聞いただけでHSC(人一倍敏感な子)のわたしは気分が悪くなって病院で倒れ、休ませてもらったことを覚えています。

高校1年生の夏休み。検査と手術のために1か月半ほど大学病院に入院しました。そこで驚いたのは、周りの大人たちがとても優しかったこと。人ってこんなに優しいんだと思ったのです。いがみ合わないし、笑顔で話しかけてくれる。今にして思えばただそれだけなのですが。それだけ家の居心地が悪かったのですね…。

変わってしまった母

市役所職員をしていた母は、父を失ってからますます、わたしの4つ上の兄を大切にするようになっていったように思います。
いつの頃からかだったのか、母のわたしに対する態度が変わってしまいました。
親戚の集まりでわたしをこき下ろして笑いを取ろうとしたり、わたしになにか落ち度があれば喜んでみたりと、性格を疑うような言動ばかりでした。
そのほかにも、聞いていられないような、愚痴、嫌み、冷笑、批判、妬み…。
これ以上書きたくないですが、ネガティブエネルギーの塊のようでした。

今にして思えば、不満や寂しさ、満たされない気持ちで一杯だったのでしょう…。(が、そこまで客観的に見られるようになったのは、かなり最近のことです)

決定的だったのは、退院してすぐ、また登校しはじめたころのこと。
まだ背中の傷口が塞がっていないのに満員電車に乗らなければならないわたしを気遣って、大学院生だった兄が車で20分の道のりを毎朝送ってくれるというのです。
ありがたく乗せてもらっていたのですが、一、二週間が過ぎた頃、兄が帰りに車を電柱かどこかに擦ってしまったのです。
それを聞いた母は大激怒して、「学校ぐらい一人で行けるだろ!!」とわたしを詰りました。
まるで、「唯一の頼れる存在である息子を、病気して迷惑かけるばかりのお前が命の危険に晒すとは何事だ」と言わんばかりでした…。

その後、また家での鬱屈とした日常がもどってきたとき、もう以前のようには耐えられなくなっていました。「自分はもっと大切にされるべきだ。もっと居心地のよい世界はほかにある」と知ったからです。そして、家では感情を感じなくするようにしました。「寝る場所と食べるもの、あともうしばらくの学費のためだけにここに居よう。それ以上はなにも期待すまい」と…。

そんな不安定な状況下で、受験も不本意な結果に。19歳のころには、「あと5年ここにいたら、わたしは頭がおかしくなる」と強く感じ、家を出る方法を模索しました。
そしてある日のこと。小さな小さな新聞広告が目に留まり、ニュージーランドの私大から奨学金をもらって留学できることになりました。
12歳ごろから明確な目標もなくなんとなく続けてきた英会話が、役に立ちました。

ニュージーランドへの出発の日、それは仲良しだった祖母の告別式の日でした。一年前から、祖母がくも膜下出血で意識朦朧の状態で入院していたのですが、出発数日前から危篤となり、出発前々日がお通夜となってしまったのです。
まるで、「〜〜ちゃんが行くなら、わたしもそろそろいくよ」とでも言うかのように…。

「目立たないように黒い服を着ていきな。成田まで送りに行けないけど最寄りの駅までは行ってやる」と母に言われ、ユニクロの黒いフリースにジーンズで、大きなスーツケースを引きずって玄関を出たことを鮮明に覚えています。

好きだった母方の伯母が玄関で見送ってくれ、こう言いました。

「おばあちゃんもあなたも、旅立ちの日だね」

(2につづく)


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