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言葉にできないきもちを、ことばにした。
なんだろう。
言葉にできない想いを書き起こしたいという衝動に駆られた。
そしていま、キーボードを打つ。
6月23日は慰霊の日だった。
正直、沖縄に来て3年目、今でも慰霊の日ことは詳しくわからない。
ただ、黙祷をし、平和を祈っている日だった。
そんな慰霊の日に関係する、映画のような動画が本日coconovaで上映された。
動画の作成にはcoconovaの館長であるぐっしーさんが関わっていた。
映像。
音。
声。
間。
瞬間。
強弱。
三線。
JJ。
ぐっしーさん。
coconova。
少しこわかった。
見たことある風景に、聞いたことのない音。
日常的から非日常へ。あるものから、ないものへ。
いちにちそこにいたはずなのに、はじめて来たところのようだった。
わたしの中に矛盾が生じていた。
わかっていたはずなのに、わかっていなかったような。
知っていたはずなのに、知っているふりをしていたと気付き。
理解できると感じていたことが、理解に行き着くことはほど遠いと感じ。
そんな時間だった。
いつも見る海から、苦しむ顔や声が滲み出てくる。
わたしにはわからない。
痛みも苦しみも。
それでもわかろうとしたい、が苦しい。息がしづらい。
そんな空間だった。
私は、ぐっしーさんのこと、何も知らないことに気付いた。
私は、沖縄のこと島のこと、知った気でいたことに気付いた。
私は、沖縄が沖縄でないことを感じた。
地域には、根底の事実があることを忘れてはいけない。
握り潰されてきた歴史や想い。
私は歴史には興味がないし、歴史が何だとずっとおもってきた。
それでも、こんにち私は歴史を大切にしようと感じるきっかけになった。
戦争はしたくない。
人には傷ついてほしくないし、人を傷つけたくない。
知らないだれかに笑っていてほしいし、そしたら私も笑っていられるような気がする。
そんな気持ちでいっぱい。
社会も人間もわかっているのに、どうして…
といえば、どうにもならないこともある、なんて言う人もきっといる。
悪いとは言わない。けれど、どうにもならないこともあるということば、それだけで人の命が消えてしまう理由にはならないとも感じるわけで。
最後に近づくにつれ、ぐっしーさんが放った
「どれが正しくて、正しくなくてではなくて」ということば、
やっと聞いたことのある、理解できることばで、
私はcoconovaに戻ってくることができた。
三線を弾くあのとき、どうしてぐっしーさんが目を閉じ、少し苦しい表情を見せていたのか、それとも私がそう受け取っただけなのか、よくわからないけれど。
私がcoconovaに出会えたことも、ぐっしーさんに出会えたことも、今こうして見ることのなかったはずの動画を見ていることも、偶然なのだろうと感じている。
そして、これが必然の瞬間だったといえるように、coconovaでやりたいを全うしたいと感じることのできた、いちにちの締めくくりだった。
帰りに、コンビニ寄った。
公共料金の支払いをした。
なんだ。ここが現実かと安堵し、不思議に感じた。
私は、生きているようで生きていなかった。(おわり)