高三生がトトロの隣に置いてきたもの
はじめに
最近「となりのトトロ」を見た。
例年の夏とは比べ物にならないほど忙しくて日付は忘れてしまったけれど、とにかくテレビで見た。
途中でお風呂に入って、少し見逃した。思い返せばメイとサツキの入浴シーンを見ていないので多分その時にお互いお風呂にいたんだろう。
ちなみに、ここから「となりのトトロ」のネタバレがたくさんあるので、ネタバレなしでトトロを見たいという人は気をつけてくれたらと思う。
そういう人にあまり出会わないけれど、そういう「はじめて」があるならばできるだけ綺麗に保っておいた方がいい。
本当にトトロを見たのはいつぶりか、それは思い出せなかった。ただ、見ているうちに小学校に上がる頃に見た記憶がどんどん蘇ってきて、きっとあの頃がいちばんトトロの世界に寄り添える時期だったのだ。
1.きらきら光るもの
キャラメル、どんぐり、生垣の葉、新芽、蚊帳から見る電灯、夏の野菜たち、田んぼの上を走る風。
トトロの世界には時々、とても美しく描かれるモチーフがある。素朴な田舎の中で現実よりも輝度を増したそれらは少し異質で、だけどメイやサツキにとって、そして私にとっては正しい世界のあり方だった。
特にあのきらきらと輝いたどんぐりは私の心を捉えて離さなくて、毎年懲りずにどんぐりを山ほど拾い集めた。
2.大きな大きなもの
おばあちゃんやお父さんよりも大きなヤギ、自分が二人縦になっても超えられないほど高い塀、いくら歩いても着かない七国山病院。
大きなものはこわい。
こわいものは大きい。
たった二つの法則と、心理的な遠近法と、そして自分自身の相対的な小ささが世界を大きく見せていた。
わたしが真ん中にいた頃の世界は、いつのまにか歪んだ遠近法で描かれた絵に変わっていた。
そして、それを俯瞰するようになってしまった私。
3.わからない「けど」素敵なもの
三匹のトトロがやってきて、体を伸ばすと植物も育つ。大きなトトロはコマで空へ飛ぶ。
(ふっくらとしたお腹を膨らますトトロと、)にっこり笑ってトトロに抱きついたサツキを見て、どうしようもないほど泣いてしまった。
わからないことと幸せになることは両立できると、私はきちんと知っていた。
いつからだろう。私は「無知」を悪と見ることに慣れてしまっていた。
恐怖の対象は大きなものから知らないものへと。
そしてその恐怖の裾は時々、学問やスポーツといった人間の価値を測るものへと伸びていく。
4.私があの世界にいたこと
ほんとうのどんぐりは宝石ではないこと、きらきらのどんぐりを集めて瓶に詰めたら虫が沸いたと怒られたこと、遊園地ほど広いと思っていた公園は、ベンチに座って見渡せるほど狭いこと(ディズニーやUSJはまだ迷子になる程広いけど)、トトロは少しこわいものかもしれないこと。
今は失ってしまった、背伸びと間延びを繰り返す時間。
場所は違えど私もあの世界にいたことには違いない。
おわりに
タイトルの置いてきたもの、はたぶん、置いてくることで大人になる。そういうもののこと。
自分ではない誰かになってまわりを見渡すこと。感情と論理を切り離す、そういう立ち回り方と引き換えに差し出した、歪んだ世界を真っ直ぐに受け止める生き方。
取り替えたものを惜しいとは思わないし、今の私に失望もしていない。
だけど高々十八年しか生きていない私にとって懐かしい世界が形に残っていて、なにより今の私にもそんな時代があったことを思い出して、なんだかとても嬉しくなった。
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