努力は他者に勝つことを保証しない、○○に勝つこと。
はじめまして
メディカルソーシャルワーカーを中心としたひきこもり支援に関する任意団体「ひきこもごも」と申します。自分の こころを守る、自分らしく幸福に生きる、をテーマに学校では教えてもらえなかった、考え方、生き方を、真剣に考えています。
今回は「努力は他者に勝つことを保証しない、○○に勝つこと。」という内容でお伝えします。
「努力は必ず報われる」はウソ
「努力は必ず報われる」はウソというのは、みなさんの人生経験のなかできっと一度は体験があることでしょう。
一生懸命部活に励んだが、レギュラーにはなれなかった。
誰よりも勉強時間を多く取ったが希望する大学に行けなかった。
など。私も経験があります。
「すべての努力は才能である」
岡田斗司夫さんという著述家の動画に「すべての努力は才能である」という主張があります。面白いのでぜひご覧になってください。
主な主張は以下のようなものです。
・スポーツや学業、ビジネスなどには生まれついた感覚などの才能がある
・才能の多寡にかかわらず、継続や工夫、機転などで成長できる努力の余地がある
・努力が出来る人は、分野を異なっても継続して成果を上げる事ができる
調査や事例を出して、
したがって「努力は、努力できる才能を持ったものができることである」
という結論です。
すべての努力は無駄なのか
この岡田斗司夫さんの動画では「残酷な事実」という副題がついていました。
切り抜きだったと思うので編集した投稿者がつけた副題かもしれませんが、どうにも救いのない結論ではないでしょうか。
才能によって努力ができるので、努力する才能のないものは、逆転の余地なく、ただ現状を受け入れろ、という受け止め方もできるわけです。
努力は他者に勝つことを保証しない。自分に勝つことである。
ここでいう「成果」とはなんなのでしょうか。
それは「他者と比較して有意に優れているか」です。
もっと言えば、勝てる結果を出せることです。
確かにこれは、岡田氏の主張する
・生まれ持った才能を持つもの
・継続することで比肩しうる手段に到達できるもの
のタイプのことなる才能のあるものがなせるものです。
しかし、
努力というのはそもそも、他者に勝つことにしか価値がないのでしょうか。
努力した自分か、努力しなかった自分か
私が八村塁に、バスケで勝利するために、バスケの練習をすることは、残念ながら無価値です。
しかし、努力しなかった自分には、かなりの高確率で勝利できるはずです。
走りこんで、トランディション(攻守の切り替え)で優位に立てるかもしれません。
シュート練習をしてタフなシチュエーションでポイントできるかもしれません。
体幹を鍛えて、空中で競り負けないようにできるかもしれません。
これは、ほぼ勝利を約束されています。それでも保証はありません。
練習のし過ぎで半月板や前十字を断裂してしまうかもしれません。
リングから落ちて頸椎を損傷して寝たきりになるかも。
練習をする前よりもバスケが下手になる可能性は存在します。
なので「勝利を保証するものではないものの、努力しなかった自分には高確率で勝利できる、というものが努力である。」
と、あえてまわりくどく再定義してあげることで、「すべての努力は無駄である」を、反証できる余地が残るのではないでしょうか。
今回は「努力は他者に勝つことを保証しない、○○に勝つこと。」という内容でお伝えしました。
普段は明日使える日常のスキルを紹介しています。
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