古文漢文を学ぶのは無駄なのか
はじめまして
メディカルソーシャルワーカーを中心としたひきこもり支援に関する任意団体「ひきこもごも」と申します。自分の こころを守る、自分らしく幸福に生きる、をテーマに学校では教えてもらえなかった、考え方、生き方を、真剣に考えています。
今回は「古文漢文を学ぶのは無駄なのか」という内容でお伝えします。
初めて時事ネタ(といえるのかどうか)を扱います。
X上で話題になっている古文漢文を学ぶことが無駄かどうかについて、ネットではいろんな意見があるようです。
うん賛成、人生で役に立ったことないし無駄
いや反対、「春は揚げ物」を面白いと思えるのが教養だ
様々な意見があるようです。
鉄棒や平方根は無駄なのか
さて今回やり玉にあがっている古文漢文ですが、違う切り取りした場合、同様の評価になるでしょうか。
鉄棒はあなたの役に立ちましたか?と聞かれて
はい!役に立ちました!と答える人もいるでしょうが少数派でしょう。
ん~単体では人生の役にたったとはいえないかな。と答える人が大半ではないでしょうか。
平方根は?
そうです、そんな簡単にだれでも身につくようなスキルは完全に陳腐化して市場価値を保てないため単体で機能するわけがありません。もし人生の役にたたせるなら、食っていくなら、組み合わせたり深堀して参入障壁が出来てから初めて市場価値を持てるわけです。
ではなぜ学ぶのか
体育で鉄棒をやりましたか?何年生でやったでしょうか。
学習指導要領では小学5年生から習うものと位置付けられています。それは「ちょうどいいから」でしょう。もし5年生に「食っていくことができるから」とシライケンゾウ2022を(そんな技があるかは知りませんが)1年間で習得させようとした場合、全員が達成できないことでしょう。
ああ~残念、はい、今年の体育は終了しました。だれもできませんでしたね~。まあ毎年そうなんで気にしないでください。
そんな結末でいいはずがありません。
成功体験にこそ価値がある
逆上がりができなかったが、できるようになった。
漢文は読めなかったけど、読めるようになった。
平方根の意味がわからなかったけど、わかるようになった。
その体験にこそ価値があるのであって、得られるスキルそのものが、そのまま社会に流用可能であることは重要ではありません。
学ぶって楽しい、「いまできない」は怖くない。できるようになる。ぼくってすごい、わたしはわたしのこと好き、そういう自己肯定感や有用感、愛着を育むことが目的であって、役に立つかは重要ではないのではないでしょうか。
文章が途中なのではないか
さて、「古文漢文を学ぶのは無駄なのか」ですが、実は私は賛成でも反対でもありません。なぜなら評価不能だからです。
「古文漢文を学ぶのは無駄である。○○のほうが学ぶ価値がある」という文章で初めて評価が分かれるからです。
ああ~確かに古文漢文よりも○○のほうが学ぶべきだ。
え、いやどっちもどっちだなおい。
は?古文漢文のほうがマシだわ。
初めて評価可能な文章になるのではないでしょうか。
あなたはどんな○○をいれますか?
確定申告?資産運用?幸福の定義?労働基準法?
単体で機能するスキルはすぐ思いつきますが、果たして子供たちの実感において、「できた!できなかったことができるようになった」といった感覚は養えるのでしょうか。批判すること自体はたやすいです。こどもにもできます。一方、本気でなぜそうなっていないのかを考え、課題と向き合い、自分や社会を変えるのは簡単ではありません。
今回は「古文漢文を学ぶのは無駄なのか」という内容でお伝えしました。
普段は明日使える日常のスキルを紹介しています。
「安心して後回しに出来るようにする」というテーマで暮らしを楽にする方法を考えています。あなたはどう思いますか?