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転がる、転がされる

床に転がっているおもちゃを踏むとめちゃめちゃ痛い。

絶対足に窪みができたと思ったその日、上の子が帰宅早々「もしも服に火がついた時には、コロコロ転がればいいんだよ」と教えてくれた。
先生に教わってきたらしい。

「転がる」ことをぼんやり考えてた日に、「転がる」関連のことが自分の身に立て続きに起きたのでこれはここに書けってことかなと思って書き始めます。
久しぶりのコラムです。

私がこの日考えていた「転がる」は、おもちゃのことでも火のトラブルが起きた時の対処方法のことでもない。

大きく言えば、「人生」
小さく言えば、「毎日」とか「時間」、になるのかな、「転がるように進む」とかそういう表現をすることありますよね。
そういう、「日々を回していくこと」の意味での「転がる」を考えていた。

「こども」の時期を終えて、「学生」も卒業して、「仕事」に就いてからそれなりに時間が経って
その合間合間では、「停滞」みたいな雰囲気の日々が続く時間も何度かあった。
「停滞」にも色々な状況があるのだけど、進みたい方向に進めなかったり、そもそも進む方向がわからなかったり、理由もなく身体が動かなかったりするような時間で、とにかく「何も進んでない」と感じるような状況を指す。

その停滞の時期をどうやって抜け出たかを考えてみると、大抵は「いつの間にか、なんとなく」という感じなのだが
その停滞が長く深いほど、自分をそこから「転がしてくれた人」がいたような気がする。

その人は、蹴っ飛ばされて否応なく転がされた、みたいなちょっと自分とは合わないタイプの相手だった時もあったし
小さなこどもにボールを返す時みたいにそっと進むべき方向へ転がしてくれるような、こちらも好意的に思っている相手だった時もある。
扇風機の「強」みたいなぐぉぉぉって風で浮かすようにどっと転がす人に出会ったこともある。

そういうことが何度か繰り返されて、自分は今この位置にいる。
嫌いな人にも好きな人にも転がしてもらって、ここにいる。
自分の中だけで、停滞やそれに伴うグチャァっとしたエネルギーを堰き止めて堰き止めて堰き止めて、自分で転がる流れを生み出したことも、あったかも。

どんな停滞の中にいても、どんな小さな範囲で生活をしていても
誰とも関わりなく生きていくことは不可能で
そうである限り、毎日何らかの変化は起きている。
だから「いつの間にか、なんとなく」で停滞を抜けているのだろう。

停滞の渦中にいる時でも、後からその時間を振り返った時でもいいから、「転がしてくれた人」をちゃんと自覚できるといいなと思う。
できればその人に感謝できたらいいなと思うし、
それからお節介でも誰かを「転がす」任務も引き受けたいと思う年頃になってきた。

「人生を変えてくれました!」みたいな大ごとじゃないけど
自転車のペダル一漕ぎ分だけ、みたいなそういう小さい「転がす」を
手の届く範囲で誰かの分を引き受ける、という役割のところに今私は転がり来たような感覚を最近持つようになった。

停滞の中にいる人を、そこから引っこ抜くようなことができる人ってそういないと思うけど
その場から小さな半径の中だけでも、ころころコロコロ転がしてみたら、ちょっと笑ったり泣いたりできた、みたいなことは自分にもできるかもしれない。
笑ったボールが次のボールを突いて、弾かれるように停滞の外に出ることもあるかもしれない。

最近書けていなかったコラムをまた書こう、と思うところまでヒョイと私を転がしてくれたのは南浦和「むくむく喫茶」の店主さんで
むくむく喫茶は、行けばたくさんのコロコロで溢れてる店だと思う。
むくむくのコロコロについては、ありがとうを込めてまた違うところで書きます。


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