表面張力
心がコップだとして、
疲れや悲しさなどのマイナスな感情を
水だとするなら、
コップに水がひたひたの状態は
心が限界を迎えているのだろうか。
「心が疲れた」
この言葉は被害者意識を持っている気がする
身体の痛みはある程度想像することができる。
腹痛、頭痛や骨折、捻挫など、
ある程度の人間は何か当てはまったことがあるはずだから、痛みに対して具体的にどう痛いか理解することができると思う。
また身体の疲れも同様に、
想像する事が簡単だろうと思う。
だが、心は人によって違うので
理解するのが難しい場合が多い。
また、人に説明するのが難しい。
なので「心が疲れた」は
自分が使う分には便利で、
魔法の言葉だ。
他人には入ってこれないバリアの中に、
1人で存在できる。
さらに言えば、
人と関わるのが面倒な人とっては、
より効果がある。
さも相手が悪いかのように、
見切りをつけてこの言葉を放てば、
自分は被害者として成立するのだ。
だからこの言葉が嫌いだ。
でも、ちょくちょく僕はこの言葉を使ってしまう。
相手に対して放たないが、
自分の普段の生活の中で、
怒りやストレスを抱えてしまう時に、
(心が疲れてるんだ)と、想うようにしている。
水をコップに限界まで入れると、
表面張力が作用する。
この力が作用するおかげで、
目に見える限界よりも、
もう少しだけ多く水を入れる事ができる。
この表面張力を心に置き換えた場合、
どんな言葉や行動が当てはまるのだろう。
考えた。
僕にフィットしたのは、
「やってくれるじゃない」だ。
「やってくれるじゃない」には
大きなポイントがある。
被害者意識がなくなる。
「やってくれるじゃない」
と想うだけで、
悩みやストレスをあえて招き入れ、
対応してやろうと言う余裕がある気がする。
心が疲れた時は、
心に余裕がない。
だから、人に冷たくしてしまったり、
周りの事を気にするのも鬱陶しい。
「やってくれるじゃない」と、
心に余裕を作ってみるのはどうだろうか。
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